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2008/5/26


亀戸天神社 Kameido-tenjinja 

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 亀戸天神社(かめいどてんじんじゃ)は、東京都江東区亀戸にある神社である。通称「亀戸天神、亀戸天満宮」と呼ばれる。祭神は、天満大神(てんまんおおかみ)、天菩日命(あめのほひのみこと)。
 正保三(1646)年、菅原道真(すがわらみちざね)の末裔・菅原大鳥居信祐(すがわらおおとりいのぶすけ)は、神のお告げにより、道真ゆかりの飛び梅の枝で天神像を刻み、天神信仰を広めるため社殿建立の志をもち、諸国を巡ったという。
 寛文元(1661)年、江戸の本所亀戸村に辿り着き、元々あった天神の小祠に天神像を奉祀したのが始まりとされる。
 翌年、社殿・楼門・回廊・心字池・太鼓橋などが九州の太宰天満宮にならい造営された。
 例年一月に行われる、木製の鷽を授与する鷽替神事(うそかえしんじ)で知られている。
 亀戸天神社は、総本社・太宰府天満宮に対して東宰府天満宮と言い、東国天満宮の宗社として崇敬されている神社である。
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2008/3/10


八橋人形 Yabase-ningyou 

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 八橋人形(やばせにんぎょう)は素朴な土人形で、江戸時代後期に京都伏見の人形師が秋田市八橋に伝えたとされる。その昔、町内にある天神様を祀る菅原神社の縁日で売られ、境内には人形屋が軒を連ねたという。
 男の子が生まれると天神人形、女の子が生まれると雛人形を求め、家に飾って子供たちの成長を願った。ずっしりとした土の量感と、決して派手ではない彩色が特徴的だ。
 現在、伝統工芸八橋人形を製作するのは、道川土人形店の一軒しかない。ずっと後継者不足に悩まされてきたが、なんとか後継者が決まり、店主はほっと胸をなでおろしている。
 先々代が作った合わせ型に粘土を詰め乾燥させて焼く作業は夏場に、絵付け作業は冬場に行う。絵付けに一番神経を使うのは目を入れる瞬間で、一瞬呼吸を止めて精神を集中させる必要があるという。
 丹念に絵付けされた手作りの土人形のぬくもりが、全国の愛好家の心を癒しているに違いない。
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2008/2/25


中山人形 Nakayama-ningyou 

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 中山人形(なかやまにんぎょう)は、秋田県横手市の樋渡家(ひわたけ)に伝わる土人形で、元々は子供のおもちゃとして作られた。
 佐賀の鍋島藩お抱えの野田宇吉という陶工が、岩手の南部藩に雇われ、陶土を求めて横手にやってきた。その時、地元の樋渡ヨシが宇吉の長男と知り合い結婚し、義父から粘土細工を習い、横手地方に古くから伝わる串姉っこ人形からヒントを得て創作したのが始まりといわれている。明治七(1874)年頃のことで、窯のあった地名にちなんで中山人形と名付けられた。
 その後、樋渡家の後継者により改良が加えられ、型おこしの素焼きに手描きの彩色を施した明るい作風が郷土玩具愛好者らに支持され、広く知られるようになった。
 近年は、お雛様や天神様などの縁起物や歌舞伎を題材にした伝統人形を継承しながらも、時代にマッチした新作を次々と発表している。特に干支にちなんだ「干支土鈴」は最も人気があるシリーズで、その中の「土鈴羊」は昭和五四(1979)年度の年賀切手の図案に採用された。
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2008/2/22


会津天神 Aizu Tenjin 

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 猪苗代湖の西側に広がる会津若松市では、数々の郷土玩具が生産されている。中でも代表的なのが、会津若松張子(あいづわかまつはりこ)である。張子とは、人形の形をした木型に和紙を糊で幾重にも張り合わせて乾燥させた後、木型を取り出して和紙に彩色を施したものをいう。
 豊臣秀吉に仕えた蒲生氏郷(がもううじさと)が鶴ヶ城主として伊勢から国替えを命じられた際、下級武士の糧になるようにと京都から職人を招き、その技術を修得させたのが始まりといわれている。この地方の張子は「赤もの」とも呼ばれ、疫病除けに効果があるという赤色を基調に彩色されている。東北地方で作られる張子の中では最も古い。
 「会津天神」はその一つで、学問の神様として信仰される菅原道真にちなみ、頭が良くなるように、出世するようにとの気持ちが込められている。昔ながらの技法で丁寧に手作りされ、その顔つきの温和さと品の良さで人気が高い。平成九(1997)年三月、福島県の伝統的工芸品に指定された。
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2008/1/8


菅田天神社 Kandaten-jinja Kandaten Shrine

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 菅田天(かんだてん)神社は山梨県甲州市に位置する神社である。
 承和九(842)年に藤原伊勢雄により創建、寛弘元(1004)年、菅原道真を相殿に祀り、以降菅田天神社と称したとされる。
 甲斐府中の鬼門を守る鎮守の地とされ、武田家重宝である源氏八領の具足の一つである国宝「小桜韋威鎧(こざくらかわおどしよろい)」所蔵の寺社として知られる。
 頑健であることから盾が不要であるとされ、別名を楯無鎧(たてなしのよろい)とも称された大鎧であり、御旗と言われる、わが国最古の日の丸旗と共に武田家当主の証として代々受け継がれた。
 祭神は本殿素盞鳴尊、菅原道真ら八柱。境内には菅公由来の座牛像や神楽殿が建ち並び、甲斐源氏の宝物を静かに守る古社である。
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2007/12/21


錦織寺 Kinshoku-ji Kinshoku-ji Temple

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 錦織寺(きんしょくじ)は、比叡山延暦寺の三代座主であった慈覚大師が、夢のお告げに従って松の霊木を探し出し、御堂を建て、毘沙門天王像を安置したのが始まりとされている。
 それから三百数十年後の文暦二(1235)年、親鸞(しんらん)が本尊に阿弥陀像を安置し再興した。言い伝えでは、再興中に天女が下ってきて、蓮糸で織った錦を仏前に献じたという。このことから朝廷より「天神護法錦織之寺」という寺号を賜り、錦織寺の名となった。
 広い境内には、県指定文化財である本尊を安置する阿弥陀堂、親鸞の真影のある御影堂、他重厚な宝蔵・書院・講堂・鐘楼がある。
 火災も多かったが、東山天皇から大宮御所の一部を下賜されたという宮御殿は当時のままであり、親鸞が大著「顕浄土教行証文類」を書き終えた様子の絵像「満足の御影」など貴重な寺宝類が数多く残されている。
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2007/12/14


菅原神社(藤川天神) 臥龍梅 Sugawara-tenjin(Fujikawa-tenjin) Garyuu-bai 

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 菅原道真は、中流公家の出身から右大臣にまで出世したエリートだったが、左大臣・藤原時平の策略で左遷、二年後の延喜三(903)年に大宰府の地にて無念のまま没したとされている。
 しかし、鹿児島県薩摩郡東郷町には、道真が大宰府にて病死を装いこの地に下って余生を送った、という伝説が残されている。
 菅原天神は菅原道真を祀っており、境内には約一五〇本の梅の木が植えられている。その中で、地に横たわった幹から空に向かって垂直に細い枝が伸び、淡紅色の八重の花を咲かせる七〇本ほどの臥龍梅(がりゅうばい)がある。臥竜とは夜明け前の寝ている龍、まだ天にのぼれず地に潜み、隠れている龍を指す。
 調査により、一本から発生し地に着いた枝から根を下ろして新株となり、今の形となっていることが分かった。伝説でも同じく道真が植えた一株が繁殖し次々に成長したもの、と伝えられている。
 樹齢は約千年、根回りは最大約1・8メートル。国指定天然記念物となっている。
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市来の祇園祭 Ichiki-no-gion-matsuri 

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 鹿児島県いちき串木野市の市来地区でおこなわれる市来の祇園祭(いちきのぎおんまつり)は、毎年七月下旬の土曜日に開催される。
 祇園祭は、文化九(1812)年の八坂神社建立の際、湊町が商港や宿場町として栄えた頃に京都の祇園祭をまねておこなわれたのが始まりである。囃子山は、若松宇吉が京都で習ってきたものだといわれている。
 勇壮活発な男山は、栄町の「加藤山」と天神町の「天神山」、京の優雅で華麗な女山は、祇園町の「道風山」と土橋町の「龍宮山」である。四つの集落による合計四台の山車が、太鼓と金を叩きながら街中を練り進む姿が見物となっている。
 市来の祇園山は県内一の大きさを誇り、正面二・五メートル、奥行き三・五メートル、高さは二階建てで五メートルもある。
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