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2007/11/9


津和野 森鴎外旧宅 Tuwano Moriougai-kyuutaku 

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 津和野の森鴎外旧宅(もりおうがいきゅうたく)は、島根県鹿足郡津和野町町田にある建築物である。国の史跡に指定されている。
 文久二(1862)年、森鴎外こと森林太郎はこの家で生まれ、明治五(1872)年に一〇歳で上京するまでここで過ごした。
 森鴎外は、明治から大正時代に活躍した文学者で、軍医総監陸軍省医務局長、帝室博物館総長兼図書頭などを務めながら、小説「舞姫」や「雁」といった作品を発表した。
 旧宅は、木造平屋建て、瓦葺きの簡素な造りで、四畳半の鴎外の勉強部屋や、藩医の家らしく調剤室も残っている。
 また、隣接して森鴎外記念館が開館しており、鴎外の生涯と功績を顕彰している。
 森鴎外旧宅は、文豪の少年時代を暮らしぶりが伺える史跡である。
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2007/10/23


宝鏡寺 Houkyou-ji 

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 宝鏡寺(ほうきょうじ)は、京都府京都市上京区寺之内通堀川にある臨済宗単立の門跡尼寺である。本尊は、聖観世音菩薩。
 応安年間(1368~1374)に光厳天皇皇女・華林宮惠厳(かりんのみやえごん)禅尼が開山した臨済宗の門跡尼寺で、中世京洛に栄えた尼五山の一つとされる。
 寛永二一(1644)年、後水尾天皇の娘が入寺してから紫衣を勅許され、以後歴代皇女が住持を勤める慣わしとなった。
 天明八(1788)年の大火では類焼したが、書院・本堂・大門・阿弥陀堂・玄関・使者の間の六棟が復興され、現在は市の有形文化財に指定されている。
 孝明天皇遺愛の人形をはじめ、多くの人形を所蔵しており、人形の寺として有名で、普段は非公開であるが、春秋には人形展が開かれて一般に公開されている。
 宝鏡寺は、人形寺として高名な由緒ある古刹である。
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本法寺 Honpou-ji 

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 本法寺(ほんぽうじ)は、京都府京都市上京区小川通にある日蓮宗一致派大本山の寺院である。本尊は、十界大曼荼羅。
 永享八(1436)年、本阿弥清信が日親上人に請じて創建したのが起源とされる。はじめは四条高倉にあったが、天文五(1536)年、法華の乱によって山徒に焼かれ、現在地に移った。
 江戸時代には後水尾天皇・紀州徳川家の保護を受けて繁栄し、中山法華経寺の輪番にあたる、上方三山の一つでもあった。
 現在の堂宇は江戸時代後期に再建されたものであり、本阿弥光悦作庭の「巴の庭」は国の名勝に指定されている。
 また、本阿弥家の菩提寺であったことでも名高く、一門の墓もあり、本阿弥光悦は多くの書画・什器をよせている。
 本法寺は、今でも篤く崇敬されている寺である。
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廬山寺 Rozan-ji 

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 廬山寺(ろざんじ)は、京都市上京区寺町通広小路にある圓浄宗本山の寺院。本尊は平安時代作の阿弥陀如来。
 天慶元(938)年、比叡山天台一八世座主・元三大師良源によって、平安京の中心軸「朱雀大路」の延長線上に位置する船岡山の南に創建。寛元年間(1243~46)に僧・覚瑜が再興し、中国の廬山にならって廬山天台講寺と号した。応仁の乱で焼失。その後、信長の焼き討ちは免れたが、後に秀吉により現在地に移される。
 平安時代には、紫式部の曽祖父、権中納言藤原兼輔(堤中納言)の邸宅があった場所で、紫式部はこの地で育ち、ここで「源氏物語」「紫式部日記」などを執筆したと伝えられている。紫式部にちなんだ源氏の庭は砂の白と苔の緑が巧みに配され、そこに清楚な桔梗が色を添え、他に類を見ない気品のある見事な庭園となっている。
 また、京都北山に聖徳太子が建立した金山天王寺の本尊の如意輪観音菩薩と脇侍の毘沙門天像は、明治以降、この廬山寺に安置され洛陽三十三ヶ所観音霊場や京都七福神として信仰を集めている。
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2007/8/10


宮平初子(人間国宝) Miyahira Hatsuko Miyahira Hatsuko (Living National Treasure)

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 首里の織物の第一人者である宮平初子の作品には、沖縄を愛し、平和を愛する彼女の気持ちも同時に織り込まれている。
 大正一一(1922)年首里に生まれる。幼少の頃より織物に深い愛着と造詣を抱き、沖縄県女子工芸学校に進学。やがて、日本民芸館の柳宗悦館長と出会い上京する。そこで、植物染料や紋織りの指導を受ける。二年後帰郷し母校の教壇に立つが、太平洋戦争で沖縄は廃墟と化してしまい、首里織物も絶滅の危機に陥ろうとしていた。宮平初子は首里織物の再建を願い首里織物の技術者の組織化に奔走した。昭和四七年、沖縄本土復帰後は那覇伝統織物事業協同組合を作るなど首里織物の技術復興と伝承に貢献、平成一〇(1998)年「重要無形文化財保持者」となる。
 首里の織物は、約500年の歴史を誇る伝統的な染織技法である。主に貴族の衣服として着用された。その織手は、士族の妻やその娘たちであったと言われている。
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2007/7/31


ずいき祭 Zuiki-matsuri Zuiki (Taro Stalk) Festival

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 ずいき祭(ずいきまつり)は、京都市上京区の北野天満宮にて、毎年10月1日~4日に行われている祭りである。
 名称は、サトイモの茎「ずいき」で御輿の屋根をふく事から付けられたという、祭礼期間中御旅所に奉安される「ずいき御輿」に由来する。
 その歴史は古く、平安中期に始まったとされ、ずいき御輿を中心とした氏子の祭りは、室町時代には行われていた。
 1日の本社から御旅所へ神輿巡行が行われる神幸祭と、4日の御旅所から本社へ神輿還幸が行われる還幸祭では、御鳳輦や稚児など王朝装束姿の氏子約150人余の優雅な大行列が、市中を練り歩く。
 期間中には、着御祭、献茶祭、甲御供奉饌などのさまざまな行事が開催される。
 ずいき祭は、五穀豊穣に感謝する、1000年以上の歴史をもつ京都の代表的な秋祭りである。
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2007/7/25


大場松魚(人間国宝) Ooba Shougyo 

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 大場松魚(おおばしょうぎょ)は、蒔絵の技術である平文(ひょうもん)を得意とする蒔絵作家である。
 大正五(1916)年3月15日、石川県金沢市に生まれ、祖父から続く塗師の家で、父について家業の「きゅう漆」を学ぶ。
 昭和一八(1943)年、上京して松田権六に師事。昭和二〇(1945)年以後独立を果たし、金沢で蒔絵作家として活躍する。
 後の昭和五七(1982)年、重要無形文化財「蒔絵」の保持者に認定され、人間国宝となった。
 平文は、漆工芸の加飾法の一種で、金・銀などの薄板を文様に切り、漆面に貼りつけ、更にその上に漆を塗り、金属文様が出るまで文様の上の漆を剥ぎ取ったもの。
 高度な技と鍛錬で、金粉や銀粉をまくだけの従来の蒔絵にはない、美しく強い光を手に入れた。
 近年は、平文を中心に螺鈿や変塗などの技法を駆使した華麗な作風で慈愛を表現している。
 大場松魚は平文と呼ばれる加飾技術で、優雅な和の世界を表現し続ける。
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2007/5/21


虎渓山 永保寺 Kokei-zan Eiho-ji 

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 岐阜県土岐川畔の丘陵にある禅刹で、山号を虎渓山(こけいざん)という。虎渓の名称は景色が中国廬山の虎渓に似ている事からと言われている。
 鎌倉時代の終わり、正和二(1313)年、土岐(とき)頼氏の招きを受けた国師の夢窓疎石が長瀬山の幽境に庵居したのが始まりである。その後文保元(1317)年、夢窓国師は同門の仏徳禅師(元翁本元)に寺を託して上京したので、永保寺の開山は元翁本元となっている。
 ここは、禅の修行僧である行雲流水が修行に励む臨済宗南禅寺派の専門道場である。
国宝の観音堂や開山堂等があり、開創を記念して植樹されたイチョウの大木は樹齢680年を誇り、多治見市の天然記念物に指定されている。また、国の名勝に指定されている池泉回遊式庭園は、紅葉の季節に是非とも訪れたい庭園である。
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