NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/7/11


両部大経感得図 Ryoubudaikyou-kantokuzu 

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 両部大経感得図は、保延二(1136)年に制作された、藤原宗弘(ふじわらのむねひろ)の作品です。縦179×横143cmの大きさで、素材は絹地を使用し、絹本著色(けんぽんちゃくしょく)という技法で描かれています。
 両部とは、「大日経(だいにちきょう)」と「金剛頂経(こんごうちょうきょう)」のことを指します。両部大経感得図では、真言宗の祖師である善無畏(ぜんむい)や、龍猛(りゅうみょう)が両部を手にする場面が描かれています。また、本作品に、五重塔など、日本の景観が描かれているのは、制作者の藤原宗弘が、インドの風景を知らなかったためであると考えられています。
 平安時代に作成された作品では、大きな破損もなく、制作年、制作者が共に判明している珍しい作品だといえます。
 もともとは、奈良県天理市の内山永久寺にありましたが、明治の廃仏毀釈により同寺は廃寺となり、現在は大阪市都島区にある藤田美術館に収蔵されています。
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2008/4/16


旧観坊 Kyuukanbou 

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 旧観坊(きゅうかんぼう)は、石動山(せきどうざん)旧観坊とも称し、その名のとおり、能登と越中の国境にある信仰の山、石動山中にある坊だ。
 坊とは僧侶の宿舎や参拝者達の宿泊施設を表し、石動山信仰が最盛期を迎えたころには山全体に約三百六十の坊が建ち、三千人の衆徒を擁していたという。
 明治初年の廃仏毀釈により、神仏習合の地であった同山は衰退することになるが、旧観坊はその悲運の山に残された唯一の坊である。
 建造年代は不明だが、慶安二(1649)年の書上帳にはすでに記されていることから、それ以前の建造と見られる。
 苔むした入母屋造りの厚い茅葺や時代感のある灰色の壁板など、農家風の構えをもっているが、化粧垂木(けしょうだるき)などの構造様式にはかつての寺坊としての格式を残している。
 周辺は紅葉のスポットとしても知られており、旧観坊を覆うように色付く紅葉や、廃れて森へと還りつつある坊の遺構などが、よりいっそうの趣を訪れるものに与えてくれる。
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2008/1/15


一之宮 貫前神社 Ichinomiya Nukisaki-jinja 

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 上野國一之宮。延喜式神名帳では名神大社に列する。
 一之宮貫前神社(いちのみやぬきさきじんじゃ)の開基については諸説あるが、安閑天皇の元(531)年頃と言われ、一般に多胡碑(たごひ)などで知られる甘良(甘楽)の谷の帰化人集団が祀ったのが始まりと見られている。
 赤城神社から一之宮の称号を譲られたと言われ、渡来系氏族による古代上毛野國征服を表すとも伝えられる。
 もとは貫前神と抜鉾神(ぬきほこのかみ)の二社二神であったが、両社が一社と混同されるようになったので明治に入り貫前神社と名乗り、戦後の社格廃止に伴い一宮貫前神社と改称したと言われる。
 参道を上り正面の鳥居をくぐって急な石段を下ったところに社殿が有る、という特異な構えが特徴で、勅額鳥居の東隣等に神宮寺跡の石垣が残る。社域は約九万平米。総門から見下ろす朱塗りの社殿と社叢の調和には息を飲む。
 寛永一二(1635)年に徳川幕府によって造営された、本殿、拝殿、楼門は重要文化財に指定されている。
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2007/12/14


泰平寺 Taihei-ji 

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 鹿児島県薩摩川内市にある泰平寺(たいへいじ)は和銅元(708)年、元明天皇の勅願寺として天下泰平を祈願して創建された。当初から七堂と堀を備える大伽藍であった。
 戦国期には豊臣秀吉の九州平定時の本陣となり、秀吉と島津氏の和睦会の場となる。その際住持である宥印法印(ゆういんほういん)が和睦の斡旋に尽力したという。現在も宥印法印の墓石の横に記念の和睦石が残っている。 
 泰平寺を舞台とした民話「塩大黒」も残っている。この地方で塩が手に入らなかった頃、お坊さんが大黒天像に愚痴をこぼすと、大黒天像が本堂から消え甑島(こしきじま)から塩をどっさり持ってきたという話だ。
 寺は明治の廃仏毀釈にて取り壊され、大正時代に再建された。創建当初からの秘仏、薬師寺如来は行方不明となるが、大黒天像は難を逃れる事ができた。大黒天像は黒く煤けた木製の立像で、愛嬌のある柔和な笑みを浮かべている。
 平成二〇(2008)年は創建一三〇〇年にあたり、記念大法要が執行される。
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徳重神社 Tokushige-jinja 

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 徳重神社(とくしげじんじゃ)は明治四(1871)年、廃仏毀釈で取り壊された妙円寺(みょうえんじ)の跡地に創建された。妙円寺に引き継ぎ、一七代藩主・島津義弘公を祀っている。
 島津義弘は、生涯五二度の合戦をくぐりぬけ八五歳で没した。朝鮮の役では一〇倍の規模の敵軍を打ち負かし、「鬼石曼子(おにしまづ)」と呼ばれ多数の功績を挙げたが、関ヶ原の合戦では、敵中突破のすさまじい退却戦となり、犠牲者の多い最も苦しい戦となった。
 徳重神社の本尊には義弘公の出家姿の木像がご神体として安置されている。 
 毎年一〇月の第四土日には、鹿児島市の照国神社から若者たちが鎧兜に身を包み、二二番まである歌を口ずさみながら神社に向かって練り歩く妙円寺参が行われている。
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2007/11/28


新海三社神社 三重塔 Shinkai-sansha-jinja Sanjuu-no-tou 

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 長野県佐久市にある新海三社神社(しんかいさんしゃじんじゃ)は、古くより佐久三庄三十六郷の総社であり、武神として源氏の崇敬厚く、武田信玄ゆかりの神社としても知られている。永禄八(1565)年の上州箕輪城攻略の際に、信玄が奉納した戦勝祈願の願文が残されている。
 この神社の広大な境内にある三重塔は、新海三社神社の神宮寺の塔として、永正一二(1515)年に建立されたと伝えられ、国の重要文化財に指定されている。
 塔の一番下の屋根を支える垂木は、扇状に木を張った禅宗様、二段目、三段目の屋根の垂木はまっすぐに木を張った和様の建築様式が用いられており、初重と二、三重の垂木の方向が違っている。禅宗様、和様と両方の建築様式が取り入られ、近世の様式の折衷化の兆しが伺える
 明治維新の廃仏毀釈の際に、それまで神社にあった多くの仏教施設は破却の難にあったが、幸いにもこの塔は、神社の宝庫としてその難をまぬがれ、今も美しい姿を残している。
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2007/11/5


観音寺と神恵院 Kanonji-to-Shinkeiin Jin’nein and Kannonji Temples

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 大宝三(703)年、日証上人が海上の船から流れてくる琴の音とともに八幡大明神のご神宣を受け、建設したのが琴弾八幡宮(ことひきはちまんぐう)であり、神恵院(じんねいん)は上人が八幡宮の別当院として創建したものである。
 後の大同年間(806~809)、弘法大師が本尊聖観世音菩薩をはじめ、諸像を安置し七堂伽藍を建立し観音寺と改め、四国霊場八八ケ所の第六八番目の霊場となった。
 その後、明治初年の廃仏毀釈よって琴弾八幡宮の本地仏は観音寺の西金堂に移されたため、観音寺は六九番目の霊場、神恵院は六八番目の霊場となり、四国霊場では唯一、一つの場所に二つの霊場が存在することとなった。
 神恵院は観音寺の境内より、更に奥の石段を登った先に建てられている。
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2007/10/31


西琳寺 Sairin-ji Sairinji Temple

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 西琳寺は、大阪府羽曳野市古市にある高野山真言宗の寺院である。本尊は薬師如来立像。
 欽明天皇の勅願寺として建立された向原寺を起源とし、7世紀前半に百済系渡来人の王仁博士の後裔である西文(かわちのふみ)氏が開基したとされる。
 出土品の瓦などから、飛鳥時代の創建が裏付けられているが、境内の庭に置かれた高さ2メートル近い塔礎石は重量27トンを超え、塔礎としては飛鳥時代最大のものである。また、当時の伽藍の資材について記された資料では、679年には七堂伽藍が完成し、743年まで七堂伽藍を揃えていた事が確認されているが、戦国時代の兵火と明治の廃仏毀釈により堂塔のほぼ全てを喪失した。
 河内飛鳥七福神の1つに数えられ、風折烏帽子に狩衣、釣竿を肩にかけ、こわきに鯛をかかえた姿の恵比寿神も祀られている。
 西琳寺は、長い歴史と伝説を持つ、古代寺院である。
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