NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/10/2


山之口麓文弥節 Yamanokuchi-fumoto-bunyabushi 

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 宮崎県都城市山之口町に伝わる人形浄瑠璃。国の重要無形民俗文化財に指定されている。
 この地に伝わったのは、江戸時代に薩摩藩の郷土にあたる人物が、参勤交代のとき京、大阪から人形芝居を習い、地元で言い伝えたのが始りとされている。
 「文弥節」は語り調子のことで、三味線に合わせて歌いながら物語が進んでいく。
 現在保存されている人形は27体。江戸時代、明治時代のものが今でも残っている。人形の背面の帯下の穴から両手を差し込む。左手で胴串を握りながら人形の左手を操る。右手は人形の右手を操作する。これらは「舞台」と呼ばれる高さ125センチの下から客席に見えないように人形だけを上に出して操作される。
 「太郎」と呼ばれるのろまな役の人形は舌と目が動く凝ったもの。年4回ほど定期的に公演が行われる。
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2008/1/28


揖宿神社 Ibusuki-jinja Ibusuki Shrine

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 揖宿神社(いぶすきじんじゃ)は、鹿児島県指宿市東方にある神社である。祭神は大日孁貴命(おおひるめむちのみこと)他八柱。
 社記によれば、慶雲三(706)年、天智天皇の由緒の地として葛城宮が創建されたという。
 貞観一六(874)年、現在の開聞岳の大噴火により遷宮し、枚聞神社を勧請して開聞新宮を名乗った。明治維新に際し揖宿神社と改称され、現在に至る。
 指宿郷の総氏神として地方開拓の祖神、航海安全、諸業繁栄の守護神として崇敬され続けてきた。
 現在の社殿は弘化四(1847)年、島津斉興(しまづなりおき)によって建てられたものである。
 境内には推定樹齢七〇〇年以上といわれる楠木の大樹八株があり、全体が「揖宿の社叢(しゃそう)」として県指定の天然記念物となっている。
 揖宿神社は、薩摩藩代々の藩主から篤く尊崇されてきた、古くから知られた神社である。
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2007/12/14


龍門司坂 Tatsumonji-zaka 

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 龍門司坂(たつもんじざか)は、薩摩の旧街道として知られる大口筋の一部で、全長が一、五キロメートルの坂道である。現在は約五百メートルが当時の石敷きで残されており、近世の交通を考える上で重要な道として考えられ、平成一八(2007)年に国の指定文化財となった。
 この坂道は寛永一二(1635)年に造られ、その後、元文六(1741)年には地元で採れる凝灰岩を利用して付近の山より切り出し、石畳を敷き詰め整備された。幅は広いところで七メートルほどあり、割合と広く感じられる。
 明治一〇(1877)年には、熊本へ向かう西郷隆盛率いる薩摩軍もこの坂を通ったといい、付近の人々が太鼓や三味線で送り出したといわれている。
 杉木立の中にある苔むした石畳にはたいへん風情があり、情緒たっぷりの坂道であることから、歴史の道百選にも選ばれている。
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2007/12/4


宮崎 ごったん Miyazaki Gottan Miyazaki Gottan

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 南九州、宮崎に伝わる板張りの弦楽器が「ごったん」である。
 三味線の皮の代わりに、杉を材料にした板が使われている、小型の三味線である。三味線と沖縄の伝統楽器である三線(さんしん)の中間をとったような楽器で知られる。
 その昔、大工が家を建てたときに、その家を建てた端材でごったんを作り、施主に贈呈するものだった。現在ではその風習は、ほぼ失われつつある。
 薩摩藩の時代、念仏禁止令が出された際、念仏代わりにうたう歌の伴奏楽器として都城地方で広まったといわれている。
 ごったんは、三味線や太鼓、囃子がはいり、賑やかな歌が披露される座興唄(ざきょううた)で知られる「安久節」の伴奏によく使われる。別名「箱三味線」とか「板三味線」などと呼ばれ、素朴ではぎれの良い音色が風土の味わいをだしている。
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2007/9/19


殿様湯跡 Tonosama-yu-ato 

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 殿様湯跡(とのさまゆあと)は、鹿児島県指宿(いぶすき)市西方にある、かつて領主・島津氏が使っていたという湯殿である。市の文化財に指定されている。
 江戸時代、薩摩藩を治めていた島津家の温泉別荘跡で、現存の浴槽は天保二(1831)年、第二七代薩摩藩主・島津斉興(しまづなりおき)によって摺ヶ浜より移設されたもの。
 浴槽は、山川石と呼ばれる加工しやすい凝灰岩を組み合わせて造られており、お湯が4つの湯壺を次々にまわり、適温になるように工夫されている。浴室には洋風のタイルが使われており、大変豪華なものだった事が伺える。
 奥には「湯権現」が祀られており、現在の浴舎の前には「二月田(にがつでん)温泉殿様湯」の石碑が据えられ、代々藩主の名を記した看板や丸に十の字紋を染めた暖簾がかけられている。
 殿様湯跡は、風格ある歴史を偲ばせる史跡である。
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密貿易屋敷 Mitsu-boueki-yashiki 

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 密貿易屋敷(みつぼうえきやしき)とは、鹿児島県南さつま市坊津にある森吉兵衛屋敷の事である。
 リアス式海岸にある坊津は琉球・南方諸国に近く、古くから日本三津といわれた中国との玄関口として栄えた貿易港であった。
 江戸時代に入ると、幕府の鎖国政策により大陸との貿易は長崎の出島ひとつとなった。
 しかしこれは表向きのことで、そのあともこの港を本拠地として、薩摩藩は大陸との密貿易を続けたのである。
 屋敷は、万延元(1860)年、三代・森吉兵衛が建て、五代・吉兵衛まで住んでいたもの。
 屋敷内には隠密に貿易を行うため、中二階・覗き窓・隠し部屋など、構造上の様々な工夫がなされている。
 密貿易屋敷は、江戸の昔が偲ばれる史跡である。
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2007/9/10


知覧武家屋敷庭園 Chiran-bukeyashiki-teien Old Samurai Gardens in Chiran

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 知覧武家屋敷庭園(ちらんぶけやしきていえん)は、鹿児島県南九州市知覧町(旧・川辺郡知覧町)にある江戸時代の武家屋敷群で、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。
 約260年余り前、知覧領主・島津久峰時代の武士小路区割の名残り。現在、武家屋敷通りと屋敷庭園が保存されている。
 7軒の屋敷の庭園が見学でき、うち6軒は枯山水式庭園、1軒は築山池泉式庭園となっている。
 薩摩の小京都と呼ばれるにふさわしい佇まいを保ち、武家屋敷群は「人をもって城となす」という薩摩藩の気風を推し進めた外城のひとつとされる。
 各屋敷が塁のように防衛障壁となるよう工夫されており、端正にして優美、虚飾に走らず簡素を旨とした、薩摩武士の知性と上品さが伺える。
 知覧武家屋敷庭園群は、江戸の昔を思い起こさせる街並みである。
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2007/9/4


琉球陶器 Ryuukyuu-touki Ryukyu Pottery

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 琉球陶器(りゅうきゅうとうき)は、沖縄県の壺屋地区に古くから伝わる伝統工芸である。
 その興りは十五世紀ごろ、東南アジアとの貿易によって、南方系の陶工技術が当時の琉球王国に伝来したことで始まるとされる。
 十七世紀前半に朝鮮や中国から陶工を招聘して技術を吸収すると共に、琉球王国を統治していた薩摩藩から持たされた技法との融合も行われ、独自の陶芸技術として発展させてきた。
 その後の発展と共に琉球王国の各地に窯ができたが、技術の集約や振興を図り、十七世紀後半に尚貞王が現在の壺屋地区周辺に統合させ、以降は同地を中心に生産が行われ、今に至っている。
 陶土や釉薬に地元の素材を用い、その器の形や装飾技法が南国特有のおおらかで明るい美しさを持つことが特徴として上げられる。
 窯では大別して、大物容器を主とする無釉の荒焼と、日用雑器類を中心とする施釉の上焼の二つが生産されている。
 その素朴で明るい趣の器は、南国の空気を持つものに運んでくれる。
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