NIPPON Kichi - 日本吉

記事数21件: 1~8 件表示     >>     >|  

2008/10/3


豫章館 Yoshou-kan 

Jp

 豫章館(よしょうかん)は、宮崎県日南市飫肥にある屋敷である。
 明治元(1869)年、元飫肥藩主であった伊東祐帰が城内から移り住んだ屋敷である。この邸内にある樹齢数百年の大楠にちなんで豫章館と名づけられた。
 飫肥城のすぐ脇にあるこの屋敷は、伊東家の家臣・伊東主水が住んでいた。しかし伊東祐帰が知事に任命されたたのをきっかけに主となった。
 この当時の飫肥の典型的な武家屋敷である。広さ約900坪はあるといわれ、伊東家の影響力がよくわかる。
 邸内にある南側の庭にわ「織部燈篭」があり、庭木や石が巧みに配置されており、風情がある。
 現在は入館料を払えば中を見学できるようになっている。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2008/1/8


旧取手宿本陣 Kyu-toridejuku-honjin Old Toridejuku Honjin

Jp En

 貞享四(1687)年に、水戸街道を通る大名などが利用する宿である本陣として取手宿の名主である染野家が選ばれた。それが旧取手宿本陣(きゅうとりでじゅくほんじん)である。
 寛政六(1794)年に一度焼失、翌年に立て直されたものが現在の母屋である。
 寄棟茅葺、桁行19m、梁間13・3mの大型の民家だが、式台玄関の上部に入母屋破風を造っており、重厚感を出している。
 内部は、宿泊を行う本陣部分と住宅部分が分かれており、三間続きの間や、書院造りの上段の間等があり、風格を重んじた造りとなっている。
 敷地内には、第9代水戸藩主徳川斉昭が天保一一(1840)年に水戸に戻る途中の利根川での船で詠んだ唄「指して行 さほのとりての渡し舟 おもふかたへは とくつきにけり」と、石に刻んだ歌碑が残っている。この歌碑は、後に江戸屋敷から届けられたもので、水戸徳川家と染野家のゆかりを示している。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2007/12/25


小泉八雲旧居 Koizumiyakumo-Kyuukyo Lafcadio Hearn’s Old Residence

Jp En

 「耳なし芳一」や「雪女」の作者として有名な小泉八雲が、松江の侍の娘セツと結婚し、明治二四(1891)年の五月から一一月までの半年間の新婚生活を過ごした家を、「小泉八雲旧居(こいずみやくもきゅうきょ)」または「ヘルン旧居」として今も姿を変えることなく保存されている。
 ヘルンというのは八雲が日本に帰化する前の名前、ラフカディオ・ハーンの姓ハーンをローマ字読みにしたもので、八雲がとても気に入って定着させた名前だという。
 旧居の建物は、享保年間(1716~1735)に松江藩士の屋敷として建てられたもので、八雲が武家屋敷に住むことを熱望して当時空家だったこの建物を借りたと伝えられている。
 この家の中央にある、三方に庭が見える部屋を特に好み、この部屋からの庭の眺めを楽しんでいたとされ、著書「知られぬ日本の面影」にも登場するという。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2007/11/14


安曇野 等々力家 Azumino Todoroki-ke 

Jp

 安曇野の等々力家(とどろきけ)は、長野県安曇野市穂高等々力にある屋敷である。町の文化財に指定されている。
 等々力家は、室町時代から地方豪族の仁科氏に長く仕えてきた旧家とされる。
 等々力家の屋敷は、江戸時代、松本藩主の御本陣であり、鮭や鴨の狩猟の際の休憩所として使われていたものである。
 穂高の「吉祥山東光寺」のはす向かいにあり、壮大な長屋門をくぐると、等々力家所蔵の駕籠(かご)や宝物を展示する大きなお屋敷の姿が現れる。
 本屋の奥には殿様座敷などがあり、庭は桃山中期の流れを汲む江戸時代中期のものといわれており、大変美しい。
 安曇野の等々力家は、藩主が狩猟の際に休憩した茶屋本陣であり、貴重な建築物である。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します




金沢 野村家 Kanazawa Nomura-ke 

Jp

 金沢の野村家(のむらけ)は、石川県金沢市長町にある建築物である。
 天正一一(1583)年、野村伝兵衛信貞は、金沢城に入場した藩祖・前田利家の直臣として従い、以後、野村家は、明治三(1970)年の廃藩まで12代に渡って1000坪の屋敷を拝領した。
 明治の武家制度の解体で、屋敷は取り壊され、菜園になってしまったが、その後、加賀・大聖寺藩・橋立の北前船の船主・久保彦兵衛の豪邸の一部をこの地に移築して、現在に至る。
 野村家は、代々御馬廻組組頭(おうままわりぐみくみがしら)や奉行職を歴任してきた加賀藩の重臣であり、格式を重んじた様式を見学できる。
 金沢の野村家は、大総檜の格天井やギヤマン入りの障子戸、狩野派の襖絵などが見事な武家屋敷跡である。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します




珠洲 喜兵衛どん Suzu Kihei-don 

Jp

 珠洲の喜兵衛どん(きへいどん)は、石川県珠洲市上戸町北方にある建築物である。
 正式には能登記念館といい、数多くの民俗資料を展示している。
 今の建物は、明治二〇(1887)年に再建されたもので、浜屋づくりの典型を示している。
 「喜兵衛どん」の「どん」は、この地方の有力農民への敬称であり、この地域の大庄屋・喜兵衛どん櫻井家の立派な屋敷を利用したもので、喜兵衛どんは江戸時代は製塩と漆掻きを家業としていた当地の名家である。
 美術工芸品や、国指定の重要有形民俗文化財である製塩用具と生漆の採取用具、及び漆工用具などが多数保存され公開されていた。
 現在は、残念ながら閉館してしまっており、これらの資料を見る事は出来ない。
 珠洲の喜兵衛どんは、当時の生活を知る貴重な古民家である。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します




越前大野 旧内山家 Echizen-oono Kyuu-Uchiyama-ke 

Jp

 越前大野の旧内山家(きゅううちやまけ)は、福井県大野市城町にある建築物である。
 幕末に大野藩の藩政改革に尽力した家老・内山七郎右衛門良休(うちやましちろううえもんりょうきゅう)は、藩営の商店を開業したり、銅山経営で手腕を発揮して多額の借金に苦しんでいた藩財政を立て直した人物である。
 旧内山家は、良休と弟の隆佐良隆の屋敷を復元したもので、母屋は明治一五(1882)年ごろ建築された梁間4間、桁行7間の平入り2階建てとなっており、屋根は現在は瓦葺だが、元は板葺であったとされる。
 天井の空間を広く使うための2階の舟底天井や、井戸のある台所などが設けられた造りが興味深く、他に数奇屋風書院の離れや衣装蔵、米蔵、味噌蔵と広い庭が存在する。
 越前大野の旧内山家は、当時の武士の暮らしが伺える、貴重な武家屋敷である。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2007/9/19


密貿易屋敷 Mitsu-boueki-yashiki 

Jp

 密貿易屋敷(みつぼうえきやしき)とは、鹿児島県南さつま市坊津にある森吉兵衛屋敷の事である。
 リアス式海岸にある坊津は琉球・南方諸国に近く、古くから日本三津といわれた中国との玄関口として栄えた貿易港であった。
 江戸時代に入ると、幕府の鎖国政策により大陸との貿易は長崎の出島ひとつとなった。
 しかしこれは表向きのことで、そのあともこの港を本拠地として、薩摩藩は大陸との密貿易を続けたのである。
 屋敷は、万延元(1860)年、三代・森吉兵衛が建て、五代・吉兵衛まで住んでいたもの。
 屋敷内には隠密に貿易を行うため、中二階・覗き窓・隠し部屋など、構造上の様々な工夫がなされている。
 密貿易屋敷は、江戸の昔が偲ばれる史跡である。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



記事数21件: 1~8 件表示     >>     >|  
NIPPON Kichi - 日本吉 - 日本語に切り替える NIPPON Kichi - 日本吉 - to english

モノ・コト・ミル・ヒトで綴る
日本の美意識。

現在の記事 5444
カテゴリーズ
都道府県
キーワードシャッフル
お気に入り
キーワード検索
閲覧履歴



Linkclub NewsLetter