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樺崎(かばさき)砲台跡は安政ニ(1855)年、宇和島湾の守りとして、山を切り海を埋め立てて建てられた砲台跡で、当時宇和島に来ていた医師であり幕末から陸軍指導者として活躍した大村益次郎、通称村田蔵六の設計・考案とされている。
海外に門戸を開いた「安政の開国」によって、瀬戸内海にも諸外国の船が頻繁に入港するようになると共に、県内の各藩は海岸防備の必要性に迫られた。なかでも宇和島藩は、藩主伊達宗城を中心に富国強兵策を推進し、軍備の近代化に力を注いだという。そんな中この洋式砲台が造られた。
総面積一五三坪、器械蔵二二坪。海を埋め立て台場を築く工事はかなり難航したという。敷地には砲眼・火薬庫などの施設と青銅製大砲五門が設置された。
砲台跡は昭和六〇年代までは海だったという宇和島港に立つ、宇和島市立歴史資料館の隣に保存されている。同資料館の建物も元警察署で明治建築の味わいのある建物である。
海外に門戸を開いた「安政の開国」によって、瀬戸内海にも諸外国の船が頻繁に入港するようになると共に、県内の各藩は海岸防備の必要性に迫られた。なかでも宇和島藩は、藩主伊達宗城を中心に富国強兵策を推進し、軍備の近代化に力を注いだという。そんな中この洋式砲台が造られた。
総面積一五三坪、器械蔵二二坪。海を埋め立て台場を築く工事はかなり難航したという。敷地には砲眼・火薬庫などの施設と青銅製大砲五門が設置された。
砲台跡は昭和六〇年代までは海だったという宇和島港に立つ、宇和島市立歴史資料館の隣に保存されている。同資料館の建物も元警察署で明治建築の味わいのある建物である。
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