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2008/8/4


本阿弥光悦 Honami-kouetsu Hon’ami Koetsu

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 本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)は、江戸時代初期の書家、芸術家。当代随一の数寄者として名を馳せるた。
 永禄元(1558)年、刀剣の鑑定や研磨を家業とする京都の本阿弥家に生まれ、書道や陶芸、漆芸、出版、建築、作庭など多岐にわたってその才能を発揮。
 特に書道の分野ではその才能を発揮し、近衛信尹(このえのぶただ)、松花堂昭乗(しょうかどうしょうじょう)と共に「寛永の三筆」と呼ばれ、和様書道の流派の一つである光悦流を創始した。
 同時代の俵屋宗達や尾形光琳らとともに「琳派」と呼ばれる作風を打ちたて、国宝の「楽焼片身替茶碗」や「舟橋蒔絵硯箱」、重要文化財の「鶴下絵和歌巻」などが残されている。
 元和元(1615)年には徳川家康から京都洛北の鷹ヶ峯に地を与えられ、一族とともに職人や町衆を集めて「光悦村」と呼ばれた芸術村を築いた。
 本人自身による製作の他に、製作総指揮のような役割も担っていたと考えられている。
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2008/7/25


愛知 如庵(国宝) Aichi Joan(Kokuhou) 

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 如庵(じょあん)は、愛知県犬山市にある庭園「有楽苑」内にある茶室である。
 元和四(1618)年に織田信長の実弟である織田有楽斎により、京都市にある建仁寺の塔頭(たっちゅう)である正伝院が再興された際、建造された茶室だ。
 明治四一(1908)年に東京の三井本邸に移築されたが、その後、一旦神奈川に移ってから昭和四七(1972)年に現在地に移築され、今に至っている。
 京都府にある妙喜庵・待庵(たいあん)と大徳寺龍光院・蜜庵(みったん)とならび「三名席」とも称され、国宝指定されている三席の茶室の一つとなっている。
 柿(こけら)葺き入母屋風の妻を正面に向けた二畳半台目向切の茶室で、内部には足元に三角形の板畳である「鱗板」を敷き、有楽窓と呼ばれる窓や斜めの壁と中柱の構えなど、随所に様々な工夫が凝らされており、千利休の独創性あふれる待庵ともまた違った、端正な佇まいを見せている。
 毎年の三月と十一月には一般公開されており、今も多くの人が訪れている。
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2008/6/30


神岡城 Kamioka-jou 

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 神岡城(かみおかじょう)は、岐阜県飛騨市神岡町城ケ丘にあった城である。
 永禄七(1564)年、越中への侵攻拠点とする事を目的に、武田信玄の命令で江馬時盛(えまときもり)が築城し、高原諏訪城の支城となった。
 天正一三(1585)年、金森長近による飛騨攻略の結果、その家臣・山田小十郎が城代となったが、元和元(1615)年に江戸幕府の一国一城令で破却され、廃城となった。
 元々は江馬館、東町城などと言われ、江戸時代に書かれた「飛州志」には江馬之御館と書かれていたが、昭和四五(1670)年、城跡に模擬天守を造った時に、神岡城という名前になった。
 現在、城跡には再現された天守閣や残された遺構である壕や石塁などがあり、内部では実際に使用された鎧、刀剣、馬具などが一般公開されている。
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松阪城 Matsuzaka-jou 

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 松阪城(まつざかじょう)は、三重県松阪市殿町にあった城である。かつては松坂城(まつさかじょう)と言われていた。日本100名城に選定されている。
 天正一六(1588)年、戦国の名将・知将と謳われた蒲生氏郷(がもううじさと)により、伊勢支配の拠点として築かれた。
 四五百森(よいほのもり)に、三層の天守閣を中心として金の間櫓等11棟の建物を建造し、小牧・長久手の戦後、松ヶ島城と大阪城の名をとり、松阪城と名付けた。
 以後、何人かの城主を迎え、元和五(1619)年、紀州徳川藩の所有となり、南伊勢国内を統括する城として代々城代が置かれた。
 現在は石垣のみが残っており、城址公園となっている。周囲には松阪市役所、市民病院、当地出身の本居宣長記念館などが存在する。
 松阪城は、明治維新まで使用された、長い歴史を誇る城である。
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2008/6/26


津和野城址 Tsuwano-joushi 

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 島根県の「津和野城址(つわのじょうし)」は、津和野盆地の南西部に位置する標高367mの山上の山城址である。
 津和野城としての築城は古く、元寇襲来の後、沿岸防備の為に弘安五(1282)年、吉見頼行が地頭として赴任し、永仁三(1295)年から築き始めた。当初は三本松城と呼ばれており、正中元(1324)年に完成した。その後、一四代に亘って吉見家が居城していた。
 戦国時代から江戸時代にかけて幾度か城主が変わるが、元和三(1617)年に亀井政矩が入城すると亀井家が明治まで一一代続く。
 津和野城は、長州に対する目付役として監視をしていたので、戦国時代の城郭形式が江戸時代もそのまま使われ、石垣もそのまま残っている。
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2008/6/25


佐敷城 Sashiki-jou 

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 佐敷城(さしきじょう)は熊本県葦北郡の標高85メートルの丘に建てられていた山城である。
 南北朝時代、薩摩の名門篠原氏一族の佐敷氏による築城と伝えられている。後の天正九(1576)年にはこの地を攻略した島津義久の配下となったが、天正一五(1582)年には加藤清正の領地となり加藤重次が城主となった。しかし、江戸時代の元和元(1615)年の幕府の一国一城令により廃城。その後も佐敷城跡は要所として佐敷番代が置かれていた。
 現在城跡である山頂部分はきれいに整備され、当時のままの石垣が復元されている。山頂からは360度、パノラマ風に周囲の風景を見渡すことが出来る絶景の地でもある。
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川島城(蜂須賀城) Kawashima-jou(Hachisuga-jou) 

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 川島城(かわしまじょう)は徳島県吉野川市を流れる吉野川に突き出た岩の鼻と呼ばれる絶壁に築かれた城である。要害堅固な城として有名であった。
 室町末期、領主の細川氏を凌ぐ勢いであった三好氏の家臣、川島兵衛之進が築いたために川島城と名づけられた。
 天正一三(1585)年、豊臣秀吉に阿波の国を与えられた蜂須賀家政は、阿波の国の防御として家老の林能勝を城主とし、警護に当たらせた。そのため蜂須賀城とも言われている。その後、江戸時代になり元和元(1615)年には、一国一城令が定められ、川島城は廃城となった。
 現在、川島城跡には川島万葉植物園が建てられている。また、本丸跡である岩の鼻には展望台が設けられ、二の丸跡には川島神社が建立されている。その東側には観光用に三層から成る模擬天守閣がそびえている。
 岩の鼻の展望台から吉野川を眺めると、その断崖の高さに驚かされ、この城がいかに堅固な城であったかを教えてくれる。
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小倉山城 Ogurayama-jou 

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 小倉山城(おぐらやまじょう)は、岐阜県美濃市泉町にあった城である。
 慶長一〇(1605)年、飛騨国高山藩主であった金森長近(かなもりながちか)は、養子の可重に高山城を譲り隠居し、隠居城として小倉山城を築城した。
 二年後、長近が没すると、可重は長近の実子長光に2万石を分地したが、慶長一六(1611)年、金森氏は跡継ぎが無く没したため取りつぶしとなり、小倉山城は廃城となった。
 元和元(1615)年、尾張徳川家の所領となり、廃城となっていた小倉山城に代官所が置かれ、以後明治維新まで続いた。
 現在、小倉山は小倉公園として整備されている。遺構としては石垣と土塁が現存しており、本丸に模擬櫓、山頂に三階建ての展望台と忠魂碑が建造されている。
 小倉山城は、城として使用されたのは短期間であったが、その後代官所として利用され、人々に親しまれた城である。
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