NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/2/15


初代 林家木久扇・二代目 林家木久蔵 Shodai HayashiyaKikuou Nidaime HayashiyaKikuzou Hayashiya Kikuou I Hayashiya Kikuzou II , Ragkugo Storytellers

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 林家木久扇(はやしやきくおう)1937年東京生まれ。61年、三代目桂三木助逝去後、八代目林家正蔵門下へと移り、林家木久蔵となる。72年に真打ち昇進。65年に『笑点』のレギュラーとなる。全国ラーメン党会長、落語協会理事などを務めている。07年、木久蔵の名を長男に譲り「木久扇」を名乗る。
 林家木久蔵(はやしやきくぞう)1975年東京生まれ。玉川大学文芸部芸術学科卒業。父である林家木久蔵の門下となり、96年に前座入り、林家きくおとなる。その後、二ツ目を経て、07年に二代目林家木久蔵として真打ちに昇進。
 2007年、東京・上野の鈴本演芸場を皮切りに、落語界史上初のダブル襲名披露興行をスタートした林家木久扇、木久蔵親子。先代が生きている間に名前を継ぐという今までにない試みとなった。
 「型にはめて守るのでなく、攻めることが、落語のようなやわらかい芸でも大事なことだ」と両氏は語る。その言葉の中には日本文化の伝統を維持し、発展させていくためのヒントが隠されている。
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2008/2/7


茶室 Chashitsu 

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 茶室(ちゃしつ)の歴史は室町幕府の八代将軍・足利義政が、京都大徳寺の一休禅師の門下、村田珠光(むらたしゅこう)と能阿弥(のうあみ)とその子芸阿弥(げいあみ)孫の相阿弥(そうあみ)の四人とともにそれまでとは違う、茶会の作法を編み出した時にはじまる。四人は広い座敷の中に一丈(十尺四方)の屏風で囲み、茶の道具である台子を前に行う台子手前で茶礼を行った。これが茶室のはじまりである。
 村田珠光の時代は書院風茶室であったが、武野紹鴎(たけの じょうおう)の時代には四畳半の茶室がつくられた。その後、千利休の時代になると屋根の形は入母屋から切妻へと変わり、壁も土壁、格子も細竹の連子と草庵の茶室に変わっていき、さらに、三畳から一畳半の広さで行う侘茶の作法と変わっていった。
 その後江戸時代にかけて活躍した古田織部(ふるたおりべ)が床の間をもつ四畳半台目の席を考案し、徳川将軍家の茶道指南役であった小堀遠州が完成させた。
 茶室とは日本文化が作り出した美と意識の交差する空間である
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2008/2/6


落柿舎 Rakushi-sha 

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 落柿舎(らくししゃ)は、京都嵯峨野の豊かな緑の中に佇む一軒の草庵である。
 江戸期の俳人であり、松尾芭蕉門下の「蕉門十哲」の一人でもあった向井去来(むかいきょらい)が閉居としていた庵で、貞享三(1686)年に造営された。
 落柿舎の名の由来は、庭に実った柿を売る契約を交わし、代金ももらったその翌日、台風で全て落ちてしまった出来事にあるという。
 元禄四(1691)年には芭蕉がこの庵に滞在、「嵯峨日記」を記したともいわれている。
 去来の没後は庵は荒廃し、元の場所も分からなくなっていたが、明和七(1770)年、京都の俳人であった井上重厚が、現在の地に再建した。
 嵯峨野に広がる山と、のどかな田園風景に溶け込むわら葺きの建物は、いつか見たような懐かしい風情を漂わせている。
 去来在宅を訪れる人に知らせていたといわれる蓑と笠が、今も土間の壁に掛けられている。
 庵に赴けば、入り口から見える蓑と笠。どうやら主人は在宅のようである。
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2008/1/24


松井康成(人間国宝) MatsuiKousei 

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 本名松井美明。昭和二(1927)年長野県生まれ。陶芸家。
 一〇代の頃疎開した茨城県笠間市で、後に父の後を継ぎ、地元の古刹「月崇寺(げっそうじ)」の住職となる。
 昭和三五(1960)年頃、廃窯となっていた山門下の窯を再興し、そこで住職の仕事の傍ら、精力的に陶芸活動を行う。
 異なる土を重ねて、文様のある生地を作り成形する伝統的な技法、練上手(ねりあげ)の探求に情熱を傾け、研究を重ねた結果蘇らせたことで高い評価を得た。
 その後も積極的に研究を続け、数多くの賞を受賞し、平成五(1993)年には、「練上手」の保持者としてに人間国宝に認定された。平成一五(2003)、その七十六年の生涯を遂げた。
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2007/10/3


山口 松陰神社 Yamaguchi Shouin-jinjya Shoin Shrine in Yamaguchi

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 松陰神社(しょういんじんじゃ)は、明治二三(1890)年に創建された、明治維新に尽力した、吉田松陰を祀る神社。
 吉田松陰は、29歳で刑死するまで、門下の育成に力を注いだ。その中から、幕末から維新にかけて活躍する、高杉晋作、久坂玄瑞、前原一誠、山県有朋などが輩出されている。
 初めは、松陰の兄の家に祀られていたが、昭和三〇(1955)年に現在地に移転し、新たに社殿が造営された。
 本殿の北隣には門下生を祀る松門神社が立ち、境内には松陰ゆかりの史跡や展示館などが点在し、高杉晋作や伊藤博文らが学んだ松下村塾や、松陰が謹慎した際過ごした、幽囚旧宅が保存公開されている。
 萩市で学問の神として最も尊敬を集める神社であり、正月には多くの初詣客が訪れる。
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2007/8/14


清水寺 子安の塔 Kiyomizu-dera Koyasu-no-tou 

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 世界中から観光客を集める京都清水寺。最も有名な本堂の舞台から、錦雲渓をへだてた正面の丘の上に、子安の塔(こやすのとう)が建っている。子安の塔は江戸時代初期に再建された高さ約15m、桧皮葺きの三重塔で、内部には本尊の千手観音が安置されている。
 聖武天皇・光明皇后がこの観音に安産を祈願し、孝謙天皇が無事に誕生したとの伝説が残ることから、後世、安産祈願の信仰が生まれ、子安観音として崇拝されている。洛陽観音第十四番札所でもある。
 塔は、欄干の柱の頭につけるネギの花の形の装飾で知られる擬宝珠(ぎぼうしゅ)高欄を付した縁をめぐらし、正面は三間とも戸がなく格子張りで、とぐみは珍しく尾垂木を設けていない。明治末年に仁王門下から現在の場所に移された。国指定重要文化財。
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2007/7/20


武田双雲 TakedaSouun Souun Takeda

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 1975年、熊本県生まれ。書道家。3歳より書道家である母・武田双葉に師事。
 東京理科大学理工学部卒業後、約3年間のNTT勤務を経て書道家として独立。以降、狂言師や彫刻家、音楽家などさまざまなアーティストとのコラボレーションや斬新な個展など独自の創作活動を展開。また、多くの門下生を抱える書道教室を主宰する。「書は会話と同じ。自分は書でコミュニケーションを取りたいだけ」と静かにそして熱く語る新世代の書道家である。
 2003年、中国上海美術館より龍華翠褒賞受賞、イタリア・フィレンツェにてコスタンツァ・メディチ家芸術褒賞受賞。映画「春の雪」「北の零年」など数多くの題字も手がけている。著書に「たのしか」「書愉道 双雲流自由書入門」「「書」を書く愉しみ」がある。
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2007/6/1


松下村塾 Syouka-sonjyuku Shokasonjuku Academy

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 江戸時代末期の幕末に長州藩士の吉田松陰(吉田松蔭)が講義をおこなった私塾。国の史跡に指定されている。
 松下村塾は木造瓦葺き平屋建ての50㎡ほどの小舎で、講義室だった8畳の部屋と、後に門人が多くなり、吉田松陰が増築した4畳半一室、3畳二室、土間一坪、中二階付きの部分から成る。
 松陰の叔父の玉木文之進が天保13(1842)年に自宅で私塾を開き、ついで松陰の外伯父、久保五郎左衛門が継いで、納屋を増改築し、教育を行った。
 安政4(1857)年、28歳の松陰がこれを継ぎ、塾を主宰した。松陰は、武士や町人など、身分や階級にとらわれず門下生として受け入れ、その殆どが身分の低い者達であった。わずかな期間ではあったが、久坂玄端、高杉晋作、伊藤博文、山県有朋、山田顕義、品川弥二郎ら、幕府を倒す、明治維新の原動力となり、明治新政府に活躍した多くの逸材を輩出したことで有名である。
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