NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/8/28


半田 銭太鼓踊り Handa Zeni-daiko-odori 

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 銭太鼓踊り(ぜにだいこおどり)は、平成一三(2001)年六月一日、半田市の無形民族文化財に指定された、成岩(ならわ)地区に江戸時代から伝わる郷土芸能である。
 江戸時代、成岩の海岸でとれた塩を足助(あすけ)方面へ運ぶ途中、豊田市駒場町で習い覚えたのが始まりといわれている。駒場の銭太鼓の起原はかなり古く平安時代という説がある。また銭が鋳造されるようになったことを祝って太鼓に銭をつるして踊ったことが始まりという説もある。
 厄払いの意味もあり、昔人々は行列になって銭太鼓を踊りながら村から厄神を送り出したと伝えられている。
 揃いの着物に身を包み、頭に花笠をつけ、手には銭太鼓を持ってお囃子(はやし)に合わせて踊りながら、ゆっくりと道路をねり歩く素朴な伝統芸能である。
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2008/4/22


和太鼓 Wadaiko Wa-daiko (Japanese Taiko Drum)

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 和太鼓(わだいこ)は、打楽器の一種であり、日本における太鼓の総称である。
 内部をくりぬいた、ケヤキなどの木でできた胴に主に牛の皮を張り、その皮を叩いて振動させて音を出す。
 構造が同じもので鼓(つづみ)があるが、手で叩くものを鼓、撥など道具を使って叩くものを太鼓と呼び、区別している。
 その歴史は古く、縄文時代にはすでに似たような構造のものが存在していたとされる。
 中世には、田楽などの庶民文化の発達などによってお囃子太鼓が隆盛し、戦国時代には陣太鼓、江戸時代には時報として江戸城内で太鼓を打つなど、人々の生活に根ざした音色を奏で続けていた。
 特に神と意思を伝達する手段、呪具として寺や神社で用いられていたことは、日本人の心に深く響く楽器となっている要因なのかもしれない。
 昭和に入ってからは様々な種類の太鼓を組み合わせた太鼓主体の音楽である組太鼓が出現し、日本人だけでなく外国の人々もその深い音色で魅了している。
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2007/12/14


七夕踊 Tanabata-odori 

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 鹿児島県いちき串木野市の大里地区で、毎年月遅れの七夕にあたる八月七日に近い日曜日に開催されるのが「七夕踊(たなばたおどり)」である。五穀豊穣を祈るこの祭りは、国の重要無形民俗文化財に指定されている。
 大里地区出身の者は、必ず一度は太鼓を打たないといけないと言われており、県外に出ている者も毎年この踊りに参加するため帰省する。
 この踊りは約四〇〇年前に、島津義弘の朝鮮の役での凱旋祝いをたたえたものとして踊られたのが始まりとされる。
 太鼓踊りを中心に「つくいもん」と呼ばれる牛・虎・鶴・鹿などの大きな張り子の作り物が登場し、狩人とのやりとりを披露する。大名行列、琉球王行列、薙刀行列、甲冑行列などの行列が繰り出され、太鼓と鉦を持った二〇数名によって風流念仏(ふりゅうねんぶつ)太鼓踊りが踊られる。大里地区の色々な神様や先祖霊に踊りを奉納し、豊作を願う。
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2007/9/18


大浦太鼓踊り Ooura-taiko-odori 

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 大浦太鼓踊り(おおうらたいこおどり)は、鹿児島県南さつま市大浦町の日新祠堂(じっしんじどう)にて、毎年八月一五日のお盆に奉納されている踊りである。
 日新祠堂は、永田・吉見家の庭内にある、戦国時代の薩摩領主・島津忠良の位牌を祀る場所で、祭神は日新公の別名もある島津忠良。
 踊りの起源・起因はよく分かっていないが、忠良が大浦へ遊行した際に供覧に添えたとか、忠良自身が振り付けしたとか、それ以前から存在したなど諸説ある。
 踊りは、鉦2人、小太鼓2人、歌い手3人、大太鼓16人で構成され、大太鼓は白装束で太鼓に背旗、鉦・小太鼓・歌は花笠のかぶりものをして踊る。
 当日はまず日新祠堂に奉納し、西福寺で戦没者を慰霊して踊り、その後いつくかの集落にて踊る。
 大浦太鼓踊りは、地元では盆踊(ぼんのおどり)とも言われる郷土芸能である。
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津貫豊祭太鼓踊り Tsunuki-hoze-taiko-odori 

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 津貫豊祭太鼓踊り(つぬきほぜたいこおどり)は、鹿児島県南さつま市加世田津貫の天御中主神社(あまのみなかぬしじんじゃ)にて、毎年一〇月二七日に奉納されている踊りである。県の無形民俗文化財に指定されている。
 天御中主神社は、延宝八(1680)年に清木場から現在地に移された神社で、祭神は天御中主神。
 踊りは、天御中主神社の秋の例祭として奉納されているほか、豊年・五穀豊饒を祈願し、各地で秋祭りとして踊られている。
 起源は、神話や源頼朝の鎌倉幕府開設の祝いにあるとも言われており、念仏踊りや雨乞い、虫追いの踊りが農民の間に行われ、発展したものと考えられている。
 小太鼓2人、鐘2人、大太鼓16人で演じられ、小太鼓と鐘は女装した男の子で、大太鼓は大きな音を立てないように打つのが特徴的とされる。
 津貫豊祭太鼓踊りは、加世田に伝わる神秘的な郷土芸能である。
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2007/8/3


小園臼太鼓踊り Kozono-usu-daiko-odori Kozono Usudaiko Odori

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 小園臼太鼓踊り(こぞのうすだいこおどり)は、宮崎県東臼杵郡門川町小園の門川神社(かどがわじんじゃ)にて毎年11月に奉納されている民俗芸能である。
 門川神社は、享禄三(1530)年、人畜守護のために勧請された神社で、祭神は宇気母智神、大国主命、大山祇神、猿田彦神。
 秋の門川神社大祭では、もちまき、大人御輿、子ども御輿などと共に、小園臼太鼓踊りが夜7時過ぎ頃から古えの戦勝を祝って踊られる。
 古えの戦勝とは豊臣秀吉の出兵に関連していると言われており、陣中で舞われたものと思われる。
 踊りは、人を集める道鏡から始まり、出兵の内容を盛ったうたが静と動で構成され、踊りの各部分に伝わっていく。
 小園臼太鼓踊りは、古くから門川町に伝わる勇壮な舞踊である。
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2007/1/11


エイサー Eisaa The Eisa Dance

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 エイサーは、沖縄の旧盆に行われる、盆踊りの様な行事である。
 1479年の「李朝実録」の中に、当時の那覇の記録としてエイサーが出ていて、この頃が始まりと考えられている。
 エイサーという名は、琉球歌謡集「おもろさうし」からという説や、「エイサー、エイサー」の囃子からという説があるが、どちらも確証はなく不明である。
 エイサーは自分のシマ(地域)の各家々を回る。このようにして家々を回り歩くことを道ジュネーと呼ぶ。特に15日の御送りを済ませた後に始める所が多いが、最近は旧盆の3日間行う所もある。
 エイサーの主体は太鼓と踊りである。地謡の演奏に合わせて太鼓を叩いていく際に、激しいアクションを見せる。数十人の太鼓踊りの統一感、一斉の躍動といった勇壮さが、エイサーの大きな魅力の一つとなっている。
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