NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/1/17


葛(クズ) Kuzu 

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 マメ科に属する葛(くず)は、秋の七草のひとつで、蔓(つる)性の多年草である。
 成長力が非常にあり、節々から根を出し、地中深く根付く。蔓もまた成長が早く、木を覆い尽くすように伸びるため、中国奥地では緑化のために植えられたこともある。
 大きな葉を持ち、夏に咲く赤紫色の小さい花は甘い香りがするのが特徴である。
 葛きりや葛湯などに使う葛粉は太い根からとれる澱粉から作られる。中でも吉野で採られ何度も晒された吉野葛は葛粉の代名詞となっている。また、風邪に効く漢方薬もまた、葛の根を干したものを原料としている。
 長い蔓は籠などの生活用品に利用され、またその繊維は温かみのある葛布として生まれ変わるなど、日本では生活に役立つ植物として親しまれている。 
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2007/10/4


亀ヶ岡遺跡 Kamegaoka-iseki Kamegaoka Site

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 亀ヶ岡遺跡(かめがおかいせき)は、青森県つがる市木造亀ケ岡に広がる縄文晩期の代名詞にもなっている遺跡である。
 元和八(1622)年に発見された遺跡で、大きなメガネ、あるいはサングラスをかけたような遮光器土偶が発掘された遺跡として有名になっている。
 遮光器土偶は明治二〇年に出土したもので、高さ34・5cm、胴体からすぐ頭部で、その異様な形、驚くほどの精緻さなどから、国の重要文化財に指定されている。
 他にも黒、朱、丹などの塗飾と彫刻風の多趣多様な文様、形状を有した壷、瓶などが出土し、当時の江戸では「亀ケ岡もの」は優れた芸術品として珍重されたという。
 現在、遺跡には遮光器土偶のモニュメントを置かれ、近くの高台にある縄文館では多種多様な出土品を展示している。
 亀ヶ岡遺跡は、古代のロマンを感じさせる大遺跡である。
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2007/9/25


宮本武蔵 Miyamoto Musashi Miyamoto Musashi

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 宮本武蔵(みやもとむさし)は、江戸時代初期に活躍した剣豪である。近代においては、処世訓や座右の銘を残した偉大な思想家としての認識も強い。
 天正一二(1584)年に誕生。13歳で最初の決闘に勝利し、諸国を巡り剣の腕を磨き、その後60回以上の決闘で負け知らずだった。剣客・佐々木小次郎との「巌流島の決闘」が有名。
 代名詞である「二刀流(二刀使い)」を始め、実用主義に貫かれた兵法が宮本武蔵の特徴だった。「なんのための剣か?」を肉体の側から思考し続けた。
 武蔵の手先の器用さ、感性の鋭さは、絵画・書画・彫刻・工芸の世界にまで及んだ。また町割り(都市計画)や造園などの事業でも優れた才能を発揮した。
 死の直前に、独自の兵法を理論化した『五輪書』を著した。戦術論を超えて、精神の扱い方を示唆する、武士道の先鞭をつける内容である。
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2007/8/20


白河提灯まつり Shirakawa-chouchin-matsuri Shirakawa Chochin Lantern Festival

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 白河提灯まつり(しらかわちょうちんまつり)は、福島県白河市にある同地方の総鎮守、鹿島神社の例祭である。
 二年に一度、平成の世においては奇数年のみ開催されており、新潟県弥彦神社の弥彦燈籠まつり、愛知県諏訪神社の一色大提灯祭りと並び、日本三大提灯まつりの一つに数えられている壮大な夜の祭典だ。
 白河地方の総鎮守樽神社で行われる、四百年の歴史を持つ例祭だけに同地方の風物詩であると共に、人々の心のよりどころとして今も盛大に行われている。
 白河の藩主であった本多能登守忠義が、神輿を寄進したことにより成立したとされる神輿の渡御やまつりの代名詞でもある提灯行列は、別名「儀式まつり」といわれるほどの武家社会の格式を今に伝える格調高いものである。
 とはいえ、屋台や山車の引き回しなどもあり、格調だけではない日本の祭りも堪能できる。
 提灯の油紙を通して揺らぐ灯火は、神秘的とも言える美しさを放ちながら夜の暗がりをゆっくりと流れていく。
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2007/5/31


にし茶屋街 Nishi-chayagai Nishi Teahouse Street

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 金沢には、城跡や武家屋敷など、城下町として風情が残るが、それだけではない。艶っぽい茶屋街も、今もその姿をそのままに残している。
 にし茶屋街は、これも金沢の代名詞となる犀川の南側にある。文政三(1820)年、加賀藩によって、ひがし茶屋街とともに創設された。
 今も、料亭や芸子の置屋が軒を並べて粋な風情を残している。夕刻からは三味線の音なども聞こえてきて、さらに趣は深くなる。
 かつては一見さんお断りが主流であったのは、ひがし茶屋街と同じだが、今では旅館やお土産屋、喫茶店などがあり、散策するに楽しい。
 西茶屋資料館は、石川県美川町出身の作家、島田清次郎が幼少期を過ごした場所であり、清次郎に関する資料が展示されている。
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2007/5/22


東京大学 赤門 Tokyo-daigaku Akamon 

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 「赤門」の名前で親しまれているこの門は、今や東京大学の代名詞と言える存在だが、そもそもは元加賀藩上屋敷の御住居表御門で、徳川第一一代将軍家斉の二一女溶姫(やすひめ)が加賀藩一三代藩主前田斉泰に輿入れする際、溶姫を迎えるために建てられたもの。
 この門が「赤」であったわけは、将軍家斉の時代は三位以上の大名が将軍家から妻を迎える場合、居住する御守殿に朱塗りの門を建造することが慣わしだったためである。
 この朱塗りの門は焼失に際して再建を許されないという習慣があり、今や当時の原型をとどめる唯一の御守殿門となった。「赤門」は、その色鮮やかな朱塗り故に見た目にも大変美しい。中央部は屋根が中心の柱から少しずれる薬医門の型式で、切妻造、本瓦葺である。
 明治三六年に現在の位置へ移されるまでは、15メートルほどキャンパス寄りに位置していたという。移転は、明治三○年頃から始まった医科大学の建設のため。現在、国の重要文化財に指定されている。
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2007/1/5


京友禅 Kyoyuzen Kyouyuuzen

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 日本の着物の代名詞ともなっている京友禅。京都の伝統工芸品のひとつである。花鳥山水などを写した色柄は、多くの色を使いながらも気高く奥ゆかしい、美しい感覚が息づいている。
 京友禅の染色技法は8世紀から伝わり、手描友禅は江戸時代に京都の絵師、宮崎友禅斉により確立されたと伝えられている。扇絵師として人気の高かった宮崎友禅斉が、自分の画風をデザインに取り入れ、模様染めの分野に生かしたことで「友禅染」が生まれたのだとか。
 工程は多いもので14工程もあり、分業制度で成り立っている。各工程を技を極めた職人たちが手がけ、その職人たちの技の結晶が京友禅として完成するのだ。
 京友禅は、艶やかで多彩な振袖を始め、黒・色留袖、訪問着、付けさげ、友禅小紋など多くの着物に使用されている。
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