NIPPON Kichi - 日本吉

記事数9件: 1~8 件表示     >>     >|  

2008/11/21


鶴岡八幡宮 流鏑馬 tsurugaoka-hachimangu-yabusame 

Jp

 鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)は、神奈川県鎌倉市雪ノ下にある神社である。祭神は応神天皇(おうじんてんのう)、比売神(ひめがみ)、神功皇后(じんぐうこうごう)。
 康平六(1063)年、源頼義が奥州を平定して鎌倉に帰り、京都の石清水八幡宮を由比ヶ浜辺に祀ったのが始まりで、鎌倉八幡宮とも呼ばれる。
 流鏑馬(やぶさめ)は、文治三(1187)年八月一五日に鶴岡八幡宮放生会に際し、源頼朝が流鏑馬を催行した事に始まるといわれる神事で、現在は鶴岡八幡宮にて毎年九月一六日に行われている。
 鎌倉武士の狩装束に身を包んだ射手が、馬で駆けながら馬場に配された3つの的を射抜く勇壮な行事で、弓馬術礼法小笠原教場宗家の協力により、鎌倉時代さながらに執り行われている。
 鶴岡八幡宮の流鏑馬は、800年間続いている伝統的神事である。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2008/1/30


登米秋まつり Toyoma-aki-matsuri Toyoma Fall Festival

Jp En

 毎年九月第三週の土日、宮城県登米市では登米(とよま)秋まつりが開催される。地域全体を守護する総鎮守の例大祭で、三百年以上に渡り継承されてきた。
 土曜日は本祭りに先立ち、矢を放ち魔を退散させる蟇目(ひきめ)の儀、大的式(おおまとしき)といった弓の儀式が奉納される。また宵祭りとして、午後五時から伝統芸能伝承館森舞台にて、県指定民俗文化財の登米薪能(とよまたきぎのう)が奉納される。
 翌日は本祭となり、武者行列、女性達の美しいよさこい踊り、稚児行列などが街を練り歩く。子供達の登米囃子の音色とともに、各町内会から繰りだす巨大な山車はおよそ一三台。和紙を使った張子は今にも飛び出してきそうな勇ましい虎や、手足を動かし泡を吹くカニ、西遊記などをテーマとした親しみやすいものだ。
 町中あげて盛り上がる宮城の秋の風物詩である。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2008/1/24


肥後三郎弓 Higo-saburou-yumi 

Jp

 肥後三郎弓(ひごさぶろうゆみ)は、名人松永重児によって作られた、薩摩弓の強さと京弓のしなやかさの、両方の特徴を合わせ持つ、美しい弓である。
 重児氏は七歳から弓作りを始め、一六歳で薩摩弓の研究のために鹿児島へ修行に出向いた。芦北白石の球磨川沿岸が竹と櫨(はぜ)の産地だということを知り、後にその地に移住して弓作りに情熱を傾けたという。
 鹿の皮を煮詰めて作った「ニベ」という接着剤で、竹と櫨の木を何重かに交互に重ね合わせて芯を作り、さらに両側から竹を張り合わせて原型が作られる。使用される竹と櫨は球磨川沿岸の厳選されたもののみを、二〇年もの間寝かせてから加工するという。
 時間を惜しまず、手間も惜しまず、職人の手で心を込めてゆっくりと制作された肥後三郎弓は、国内外の弓道家などに高い評価を得ているという。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2007/12/26


破魔弓 Hamaya 

Jp

 昔から弓には魔を退ける力があると信じられていて、「破魔弓(はまや)」は魔を破る弓として用いられていた。
 破魔弓を贈る習慣は、江戸時代の頃に武家の男児に成長して立派な武士として出世する事を願い、手遊びに使える弓矢を贈った事から始まっている。やがて庶民にも伝わっていき、様々な邪気から身を守るという事で初正月を迎える男の子に贈ったり、新築の家の上棟式に供えたりする様になった。上棟式の破魔弓は家屋の守護神に供えられるもので、竣工するまでの加護の祈願や幸多く災いのない事を祈る気持ちが込められている。
 縁起物の贈答品として定着していった事で、次第に工芸的な美しさが求められる様になり、それを作る職人達の技も高められ、豪華なものになっていった。
 一般的に弓、矢、靫(うつぼ)を一組とした揃いを飾るが、正月の破魔矢の様に矢のみを飾る場合もある。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2007/12/14


大汝牟遅神社 流鏑馬 oomunachi-jinja Yabusame 

Jp

 鹿児島県日置市の吹上町に、天照大神の孫である邇邇芸命(ににぎのみこと)がしばらく宮居されたという伝説があり、大和の国の三輪神社の御祭神である大汝牟遅神(おおなむちのみこと)を迎えて祀ったのが大汝牟遅神社である。この神社で一一月二三日に奉納されるようになったのが、流鏑馬である。
 日新公と呼ばれる伊作島津家一〇代・忠良が加世田城攻略の時、これが叶えられたら毎年の流鏑馬の奉納をすると約束祈願し、天文七(1538)年、城攻めに勝利した。
 吹上町の流鏑馬は、宮内地区の大汝牟遅神社横にある馬場参道で、二名の射手によって交互に三回ずつ的を射る方法でおこなわれる。
 射手は宮下家・宮内家の両家の世襲制である。近年は流鏑馬保存会が結成され、地域の人々によって受け継がれている。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2007/8/10


大名行列 Daimyou-gyouretsu Daimyo’s Procession

Jp En

 徳川幕府三代将軍徳川家光は、幕府体制維持のために、武家諸法度に参勤交代をもりこみ制度化させた。これによって大名の妻や子は江戸に居住することを義務付けられ、大名自身は1年おきに江戸と国許を往復しなければならなくなった。この往復する大名一行の行列を大名行列という。
 この大名行列の人数、内容とも大名の石高によって細かく定められていた。よく映画などで見受ける「シタニー、シタニー」の掛け声の露払いを先頭に、六尺、挟み箱、毛槍、弓、鉄砲、徒士、小姓、大名、家老、大名籠、奥女中、腰元、長持などが続いていく。
 江戸時代最大の石高藩、加賀藩では実に二千五百人の行列という記録も残っている。
 江戸時代初期には各藩権威を争い華麗な行列であったが、経費がかさむことから次第に簡素化されていった。
 
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2007/8/1


小斎 奉射祭 Kosai Yabusame 

Jp

 小斎の奉射祭(こさいのやぶさめ)とは、宮城県伊具郡丸森町小斎にある小斎鹿島神社(こさいかしまじんじゃ)にて旧正月1月15日に行われる神事である。
 寛永二〇(1643)年、小斎佐藤家四代領主・清信が奉射祭を行ったのが始まりとされる。
 小斎鹿島神社のやぶさめは、馬に乗って矢を放つ流鏑馬(やぶさめ)とは違い、立ったまま射るやぶさめであり、一年の天候を占い、五穀豊穣・地区の安全を祈願し、武術の練磨及び精神鍛錬の目的もある祭りとされる。
 前日の水垢離、祭礼当日の再度の水垢離の後、目隠しをした神官が矢を射て今年の天候を占う御神的神事が行われ、10人の射手による大的射礼、かりがねの的射礼と続く。
 小斎の奉射祭は、古より続く厳かな神事である。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2007/1/30


大入島 神の井 Ohnyu-jima kami-no-i Onyu Island Kaminoi Well

Jp En

 大分県佐伯市、大入島の日向泊(ひゅうがどまり)にある井戸。満潮時には水没するが、湧き出る水は清水である。
 縁起は古く、神武天皇が東征の折に日向の美々津港から立ち寄り水を求めたところ、島には水がないと言い嘆き悲しむ島民に、天皇は折れ弓を地面に立て「水よいでよ」と言うと清水が湧き出したという。
 大入島の「大入島トンド火まつり」は感謝した島民たちが、夜の海を行く神武天皇の船を送るために海岸でやぐらを組み火を焚いたのが起源とされる。
 現在も無病息災を願い、毎年1月に行なわれる。十数メートルの松明を組み、激しい炎を巻き上げる様は壮観。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



記事数9件: 1~8 件表示     >>     >|  
NIPPON Kichi - 日本吉 - 日本語に切り替える NIPPON Kichi - 日本吉 - to english

モノ・コト・ミル・ヒトで綴る
日本の美意識。

現在の記事 5444
カテゴリーズ
都道府県
キーワードシャッフル
お気に入り
キーワード検索
閲覧履歴



Linkclub NewsLetter