NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/4/16


旧観坊 Kyuukanbou 

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 旧観坊(きゅうかんぼう)は、石動山(せきどうざん)旧観坊とも称し、その名のとおり、能登と越中の国境にある信仰の山、石動山中にある坊だ。
 坊とは僧侶の宿舎や参拝者達の宿泊施設を表し、石動山信仰が最盛期を迎えたころには山全体に約三百六十の坊が建ち、三千人の衆徒を擁していたという。
 明治初年の廃仏毀釈により、神仏習合の地であった同山は衰退することになるが、旧観坊はその悲運の山に残された唯一の坊である。
 建造年代は不明だが、慶安二(1649)年の書上帳にはすでに記されていることから、それ以前の建造と見られる。
 苔むした入母屋造りの厚い茅葺や時代感のある灰色の壁板など、農家風の構えをもっているが、化粧垂木(けしょうだるき)などの構造様式にはかつての寺坊としての格式を残している。
 周辺は紅葉のスポットとしても知られており、旧観坊を覆うように色付く紅葉や、廃れて森へと還りつつある坊の遺構などが、よりいっそうの趣を訪れるものに与えてくれる。
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2008/2/6


妙法院 Myouhouin 

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 妙法院(みょうほういん)は、数々の著名な寺社が立ち並ぶ京都府東山区に位置する天台宗の古刹である。
 古くから皇族や貴族の子孫が住持を務める寺院を「門跡」といって別格の扱いとされるが、この妙法院も門跡の一つであり、青蓮院、三千院と並び「天台三門跡」と称されてきた名門である。
 その創建には諸説あり、元は比叡山上にあった小寺院であるといわれ、開祖を最澄とするものや、後白河上皇が落飾後の永暦元(1160)年ごろ、比叡山の僧、昌雲が里坊を開いたのを始まりとするものなどがある。
 平安時代末期には京都市内に移転、その後は幕末まで代々法親王が住持を勤めていた。
 当時は広大な敷地面積を誇り、通し矢で有名な三十三間堂は、今も妙法院の管理するところである。
 豊臣秀吉が築いたといわれ、国宝にもなっている庫裏(くり)や重要文化財である大書院、狩野派の筆による障壁画が残る大玄関など、桃山文化の美が封印された大伽藍を今に伝えている。
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2007/12/14


泰平寺 Taihei-ji 

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 鹿児島県薩摩川内市にある泰平寺(たいへいじ)は和銅元(708)年、元明天皇の勅願寺として天下泰平を祈願して創建された。当初から七堂と堀を備える大伽藍であった。
 戦国期には豊臣秀吉の九州平定時の本陣となり、秀吉と島津氏の和睦会の場となる。その際住持である宥印法印(ゆういんほういん)が和睦の斡旋に尽力したという。現在も宥印法印の墓石の横に記念の和睦石が残っている。 
 泰平寺を舞台とした民話「塩大黒」も残っている。この地方で塩が手に入らなかった頃、お坊さんが大黒天像に愚痴をこぼすと、大黒天像が本堂から消え甑島(こしきじま)から塩をどっさり持ってきたという話だ。
 寺は明治の廃仏毀釈にて取り壊され、大正時代に再建された。創建当初からの秘仏、薬師寺如来は行方不明となるが、大黒天像は難を逃れる事ができた。大黒天像は黒く煤けた木製の立像で、愛嬌のある柔和な笑みを浮かべている。
 平成二〇(2008)年は創建一三〇〇年にあたり、記念大法要が執行される。
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2007/12/6


閼伽井坊 多宝塔 Akai-bou Tahou-tou The Tahoto Pagoda of Akaibo Temple

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 室町時代末期の貴重な遺構といわれる、閼伽井坊の多宝塔(あかいぼうのたほうとう)は花岡八幡宮境内に立っている。
 昭和三(1928)年の解体修理の際、永禄二(1560)年の墨書のある木片が発見された。
 藤原鎌足が建立した一六の塔のひとつと伝えられる卒塔婆は、その美しい木組みの姿が今も整ったまま残されている。屋根は反りの大きな柿葺で、高さが一三・五mある。
 多宝塔と呼ばれる二重の塔は、下重が方形、上重が円形の造りになっており、頂上には相輪という飾りを持っている。閼伽井坊の多宝塔は他の多宝塔と比べると上重がやや高めとなっている。
 多宝塔の特徴ともいえる、上重の円形部分の木組みの美しさには特に目を見張るものがある。
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2007/11/9


長福寿寺 Chouhukujyu-ji 

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 長福寿寺(ちょうふくじゅじ)は、千葉県長生郡長南町長南にある天台宗の寺である。本尊は阿弥陀如来。
 延暦一七(798)年、桓武天皇の勅願により、伝教大師・最澄によって創建された。
 正式名を、三途河頭極楽東門蓮華台上阿弥陀坊太平埜山本実成院長福寿寺と言い、日本一長い勅号とされている。
 関東における学問所として、房総内外の寺院子弟の教育にあたり、中世においては西の比叡山、東の三途台と称せられ、房総三国における大本山として末寺308ヶ寺を有した大寺である。
 現在は研修道場としても開放され、各種講演会が開催されている。境内には紅花が咲いており、所蔵の木造慈恵大師坐像は、県指定の有形文化財になっている。
 長福寿寺は、長い歴史を誇る関東随一の大古刹である。
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2007/10/31


青蓮院 Shouren-in 

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 青蓮院(しょうれんいん)は、比叡山延暦寺の三門跡の一つで天台宗の寺院で知られる。門跡寺院とは、皇族や摂関家など高貴な身分の子弟が入寺した、特定の寺院をさす。天台宗の三門跡寺院とは、青蓮院、三千院、妙法院のことである。
 寺の歴史は古く、比叡山につくられた僧侶の住坊が起源といわれ、そのひとつである「青蓮坊」が青蓮院の起源であるといわれている。当時は最澄、円仁はじめ高僧の住居であったという。
 青蓮院は別名「粟田御所(あわたごしょ)」とも呼ばれている。これは天明八(1788)年に京都で起こった天明の大火のとき、後桜町上皇(ごさくらまちじょうこう)の仮内裏になり、そのため江戸末期まで一般の立ち入りが禁じられていたことによる。
 門前にはクスノキの巨樹があり、樹齢は約八〇〇年といわれ、京都市の天然記念物に指定されている。
 また、室町時代に相阿弥(そうあみ)が作庭したと伝えられる龍心池を中心とした回遊式庭園も見物である。
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2007/8/23


野間大坊 Noma-daibou Noma Daibo

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 野間大坊(のまだいぼう)は、正式には大御堂寺という名の真言宗の寺。歴史は古く、七世紀中頃の天武天皇の時代に始まる。源義朝(みなもとのよしとも)が湯殿で謀殺された所として名高い。義朝とは、頼朝・義経の父にあたる。
 平治元(1159)年、平治の乱に破れた源義朝が、家来の鎌田氏の義父、長田忠致(おさだただむね)を頼って美濃から知多半島沿岸を通り、野間に落ちのびた。義朝は正月を忠致宅で過ごすが、平氏からの恩賞を目当てにした長田父子に浴室で殺されてしまう。
 野間大坊には義朝の墓がある。義朝は最期「せめて木刀一本でもあれば殺されず済むものを」という言葉を残したといわれ、その墓には多くの木刀が供えられている。木刀を奉献すれば願いが叶うといわれている。
 敷地内には義朝の首を洗ったと伝えられる血の池、湯殿跡などが今も残されている。
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2007/4/12


源宗坊 Gensou-bo Gensobo Temple

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 明治39年に稲田源宗坊が開いたお寺で、門をくぐると道に沿って配置された15体の仏像を見ることができる。
 稲田源宗坊が諸国修行の後に、この地で3年間の荒修行を行い、諸人の病苦を除くことを発願し、薬草を煎じ病人を養い、独力で仏像を刻んだ。
 昔は四季折々の花の咲く公園のような場所だったそうだが、これまでに3度の水害により、仏像が破損するなどの被害を受けている。
 現在源宗坊の孫にあたる原田詳源さんは、人々の憩いの場所として利用されることを願い、仏像やお寺の管理を続けている。
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