NIPPON Kichi - 日本吉

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2007/10/17


勝部の火祭り Katsube-no-hi-matsuri Katsube Shrine Fire Festival

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 勝部の火祭り(かつべのひまつり)は、毎年1月の第2土曜に、住吉の火祭り(すみよしのひまつり)とともに開催される祭りで、県の無形民族文化財に指定されている。
 ここ勝部の地には、藤原秀郷の放った矢で息絶えた大ムカデの胴体が落ちてきて、それを焼き払ったことから、大ムカデをかたどった松明が用意される。軸が長さ約6メートル、直径約40センチの巨大な円柱である。
 勝部神社は大化五(649)年物部宿禰広国(もののべすくねひろくに)が祖神を祀ったといわれる古い神社で、戦国時代には近江守護の佐々木氏や、織田氏・豊臣氏にも厚い庇護を受けたとされている。
 この境内で主役のムカデである12本の巨大松明に、御神酒・鰯・豆腐を供えて祈祷したあと、若者が褌姿で揃い、神前の御神火から火をもらって一斉に点奉火する。
 若者たちのかけ声は勝部では「御脳平癒」を意味する「ごーよ ひょーよ」、住吉では「平癒」を意味する「へーゆ へーゆ」とそれぞれ違うのも特徴である。
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2007/9/6


瑞巌寺 庫裏、廊下(国宝) Zuigan-ji Kuri,Roka Kuri and the Corridor at Zuiganji Temple (National Treasure)

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 瑞巌寺(ずいがんじ)は、宮城県宮城郡松島町松島にある臨済宗妙心寺派の寺である。本尊は、聖観音菩薩。
 天長五(828)年、慈覚大師円仁が開き、淳和天皇の勅願寺として平泉藤原氏の庇護を受けた延福寺が前身と伝えられる。正元元(1259)年、臨済宗に改宗し、繁栄した後、戦国時代に衰退した。 慶長一四(1609)年、伊達政宗により復興され、寺名を瑞厳円福禅寺と改めた。
 庫裏と廊下(くりとろうか)は慶長年間(1596~1614)の建立と考えられ、廊下は庫裏と本堂をつなぎ、縁に勾欄があり、繰形をつけてある。
 庫裏は切妻造、本瓦葺の巨大な屋根を架しており、妻飾り及び廊下の構成美が特に優れているとされ、国宝に指定されている。
 瑞巌寺の庫裏、廊下は、秀逸な意匠をこらした貴重な史跡である。
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2007/9/5


紅型 Bin-gata Bingata

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 紅型(びんがた)は、沖縄を代表する伝統的な染織技法の一つである。
 起源は十六世紀ごろとされており、当時の琉球王国では王族や貴族の衣装として染められていた。そのため、染屋は首里城の周りに置かれ篤く庇護されていたという。
 「紅」は色全般を示す言葉でとして、「型」は型絵染めの型紙を表す言葉として用いられ、型紙を使って様々な色で染め上げたもの全般を紅型と読んでいた。
 紅型には二つの手法があり、型染めは型を用いて文様を染めあげるもので、筒引きは文様を描くのに必要な糊を円柱状の筒にいれ、その先からところてんのように搾り出しながら文様を描く手法だ。
 これら細心の手作業により生み出される色合いは当時の王侯貴族たちを魅了して止まず、特にフクギと呼ばれる植物から取れる黄色は、王族のみ使用がゆるされるほどだった。
 現在では用途も広がり、着物のみならず帯や各種装飾品などにも活用されており、友禅に並ぶ日本の代表的な染物として、南国の情緒を楽しませてくれている。
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2007/8/10


安城の三河万歳 Anjou-no-mikawa-manzai Mikawa Manzai in Anjo

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 今から500年も昔、日本各地は戦乱に明け暮れていた。そんな中、玄海という僧侶が民の苦しみを和らげるために各地を巡り、人々の前で滑稽に踊ったりして楽しみを与えた。これが三河万歳のおこりと言われている。
 やがて玄海は戦乱を逃れて長谷部郷に移り住んだ。そして、安祥城主、松平親忠の依頼を請け矢除けの祈祷や万歳祝言を行った。松平親忠は玄海を庇護し、この地に土地を与えた。そこは別所村と名づけられ、玄海はここで人々に万歳を教え、優れた万歳師が多く誕生した。
 万歳は、新春の寿ぎ(ことほぎ)の台詞とともに舞う祝福芸として人々に笑いを与え、徳川家の庇護のもと関東一円に広がっていったのである。
 安城の三河万歳は平成七(1995年)年「国指定重要無形民俗文化財」の指定を受けている。
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2007/8/9


信光明寺 Shinkoumyou-ji Shinkomyoji Temple

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 信光明寺(しんこうみょうじ)は、愛知県岡崎市岩津町東山にある浄土宗の寺である。本尊は、釈迦如来。
 宝徳三(1451)年、松平家3代信光が浄土宗鎮西派の釈誉存冏(しゃくよぞんげい)に帰依、創建された。
 境内にある観音堂は、文明一〇(1478)年に建てられたもので、屋根の軒先の反りの深さ、総門の屋根にあがっている鬼瓦などに、室町中期の禅宗的趣味がよく表されており、国指定の重要文化財となっている。
 江戸時代には、将軍家の先祖菩提寺として幕府により篤く庇護され、諸堂の焼失などの際にも修復費用が捻出されている。
 この寺には文化財も多く、室町時代の山越阿弥陀如来像、南北朝時代の雲中阿弥陀如来像などが存在している。
 信光明寺は、徳川家の先祖・松平家の菩提寺として有名な長い歴史を誇る寺院である。
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2007/8/7


岡崎市 随念寺 Okazaki-shi Zuinen-ji Zuinenji Temple

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 岡崎市の随念寺(ずいねんじ)は、愛知県岡崎市門前町にある浄土宗の寺である。本尊は、阿弥陀如来、千手観世音菩薩。三河三十三観音霊場第2番札所とされる。
 永禄五(1562)年、徳川家康が、祖父・松平清康と清康の妹である大叔母・久子の菩提を弔うために創建された。
 久子は、家康が生母の於大と生別して以来、家康を長い間養育した人である。
 東海道を見下ろす丘陵に建てられた一連の社寺の中でも、幕府の庇護が厚く、城の防衛拠点としての名残りを今も多く残している。
 山門は四脚門(しきゃくもん)で、山門の先には美しい白壁が続いており、一間一戸の楼門が見える。
 岡崎市の随念寺は、長い歴史を誇る、松平・徳川家と家康ゆかりの寺である。
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2007/7/31


登米能 Toyoma-nou Toyoma-Noh

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 登米能(とよまのう)は、宮城県登米町で、伊達一門の流れを汲む能として230年に渡り、その伝統が受け継がれている能楽だ。
 元来、能楽は武家の式楽として重視され、仙台藩においても手厚い庇護と奨励を受けてきた。登米能も仙台伊達藩の能楽である金春大倉流の流れをくむものであるが、歴代の藩主達も能を重んじた影響もあって、登米伊達家では公の儀式の時に演じられる式楽として、武士階級の間に定着し、継承されていくこととなる。
 その後、明治維新の廃藩により能を受け継いできた武士達が帰農した結果、登米の庶民達にも浸透し、今に至っている。
 仙台領内の各地の能楽が廃絶衰微した中で、登米の能楽だけは伝統的な能と狂言を現代に継承する大変貴重な存在として、宮城県の民俗文化財にも指定されている。
 毎年六月の新緑薪能(しんりょくまきのう)と九月に行われるとよま秋まつりの宵祭りに上演される。
 かがり火の中で演じられる登米能は、華麗なる舞と共に見るものを幽玄の世界へといざなう。
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2007/7/25


伊勢型紙 Ise-katagami Ise-Katagami

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 伊勢型紙(いせかみがた)は、三重県伊勢市に伝わる伝統美術工芸品である。
 古来、伊勢の地・現在の鈴鹿市で作られ、飛び地として紀州藩によって庇護された伊勢商人によって全国に販売されていたため、この名で呼ばれてきた。
 伊勢型紙とは、きものなどの型染めに用いる型紙のひとつで、渋紙にさまざまな手彫りの技法で緻密な文様や優雅な図柄を彫り抜いたもの。
 主な用途は、友禅、ゆかた、小紋などの文様を着物の生地に染めるためであるが、着物を染めるだけなく、陶器、ガラス、ゴザなどにも模様をつけるために使われたり、新聞の見出しの「もんがら」などにも使われている。
 伊勢型紙は、1000年の伝統を誇る、独特の技法で仕上げる、晴らしい工芸品である。
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