NIPPON Kichi - 日本吉

記事数11件: 1~8 件表示     >>     >|  

2008/4/16


旧観坊 Kyuukanbou 

Jp

 旧観坊(きゅうかんぼう)は、石動山(せきどうざん)旧観坊とも称し、その名のとおり、能登と越中の国境にある信仰の山、石動山中にある坊だ。
 坊とは僧侶の宿舎や参拝者達の宿泊施設を表し、石動山信仰が最盛期を迎えたころには山全体に約三百六十の坊が建ち、三千人の衆徒を擁していたという。
 明治初年の廃仏毀釈により、神仏習合の地であった同山は衰退することになるが、旧観坊はその悲運の山に残された唯一の坊である。
 建造年代は不明だが、慶安二(1649)年の書上帳にはすでに記されていることから、それ以前の建造と見られる。
 苔むした入母屋造りの厚い茅葺や時代感のある灰色の壁板など、農家風の構えをもっているが、化粧垂木(けしょうだるき)などの構造様式にはかつての寺坊としての格式を残している。
 周辺は紅葉のスポットとしても知られており、旧観坊を覆うように色付く紅葉や、廃れて森へと還りつつある坊の遺構などが、よりいっそうの趣を訪れるものに与えてくれる。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2007/6/28


あばれ祭り Abare-matsuri Abare-Matsuri Festival

Jp En

 能登町の「あばれ祭り」は、その名の通り、暴れることが面目。7月の第一金曜・土曜に行なわれるこの祭りは、その後8月に入って9月中旬まで能登半島各地で続く「能登キリコ祭り」の先陣である。
 金曜の夜、宇出津(うしつ)港の波止場に設けられた柱たいまつに火がつけられると、灯りをともされたキリコと呼ばれる切子灯籠(きりことうろう)や神輿がその周りを駆け回る。翌土曜日には、キリコは町内を練り回るが、神輿を海へ投げ込み、その後夜には八坂神社近くの川へ放り込み、最後は八坂神社前の大たいまつの火の中へ投げ入れるという暴れぶりが披露される。
 これは、祭神の「須佐之男命(すさのおのみこと)」が荒ぶる神の象徴とされているので「暴れれば暴れる程良い」とされているため。1665年前後の年に能登で疫病が大流行した折、京都の祇園社から牛頭天王を勧請し、盛大な祭礼を始めたところ疫病が鎮まったので、喜んだ地元の人々がキリコを奉じて八坂神社へ詣でたのが始まりとされている。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2007/2/2


能登上布 Noto-jyoufu Noto-jofu

Jp En

 石川県能登地方に伝わる、上質の麻織物。石川県指定無形文化財。
 能登半島の羽咋市や鹿西町は、旧来から麻との関わりが深い。崇神天皇の皇女が、野生の麻で糸を作り、この地の女性に機織りを伝え、これが能登上布の起源とも伝えられる。麻糸を東大寺に納めた記録も残る。
 しかし江戸時代の初期までは、上質な麻糸は近江上布の原料となっていた。その後、独自の上布を作る気運が高まり、近江より技術者を招いて、これを機にこの地の織物技術が格段に向上する。
 文政元(1818)年に能登縮(のとちぢみ)が誕生、能登の名前を初めて冠した布となる。その後も技術は向上、明治の終わり頃から、麻織物の最高級品の称号をつけて、能登上布と呼ばれるようになる。
 能登上布は、まるで蝉の羽のようだ、と形容される。夏を涼しく、風流かつ上品に過ごす知恵と技術の結晶がここにある。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2007/1/24


奥能登塩田村 Okunoto-endenmura Oku-Noto Salt Pan Village

Jp En

 能登の人々と塩との関わりを展示した資料館及び体験型設備。
 四方を海に囲まれた日本では、海水から塩を取り出す方法が発達。色々な地方に、塩を作る浜辺=塩浜が作られた。
 その技法は大きく分類し、揚げ浜・入り浜の二つが挙げられるが、能登半島においては、多くの海岸で、揚げ浜式によって製塩が行われていた。
 奥能登塩田村がある珠洲市では、現在も五〇〇年前と、ほぼ同じ、揚げ浜式の技法によって塩が作られている。
 揚げ浜式とは、海水を手桶にくみ、何度も何度も砂に撒いて天日に干す方法。ミネラル豊富で、塩自体にもうまみがあるが、何よりその塩を調理に用いると、他の素材のうまみも引き上げられるのが特徴だ。
 奥能登塩田村では、この昔ながらの揚げ浜式の製塩法を体験、自分だけのオリジナルの塩を作ることができる。期間は五月から九月の間。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します




下時国家 Shimo-tokikunike Shimo-Tokikuni House

Jp En

 平家の子孫、平時国(たいらのときくに)を祖とする家。壇ノ浦の合戦後、平家の武将、平時忠(たいらのときだた)は能登に流され、その後、輪島に移り住み、時国家(ときくにけ)の祖となる平時国が生まれたとされている。
 時国は平家を捨て、姓を時国とした。貧困に喘ぐ輪島の農村・農民を助け、人心を得てこの地の豪農となり、江戸時代には、庄屋として名字帯刀を許可された。
 十三代籐左右衛門時保の時、次男の千松が分家、下時国家を名乗る。藩の山役や塩吟味役などを勤め、本家とともに繁栄した。
 現在の住宅は寛文十(1670)年、分家の時の建築、と言われているが確証はない。
 奥能登農家の大型の家屋で、土間が広いのが特徴である。庭園も国指定の名勝。
 壇ノ浦の戦いで命を落とした安徳天皇を祀り、能登安徳合祀時国家とも呼ばれる。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します




曽々木海岸・窓岩 Sosogi-kaigan・Madoiwa The Sosogi Coast and Window Rock

Jp En

 曽々木海岸は、国指定名勝であり天然記念物。標高三五七メートルの岩倉山を頂点とし、西は町野川の河口から東は珠洲市の境となる垂水の滝まで。また海岸から一〇〇メートル沖までがその範囲となる。
 岩倉山は断崖をなして海に迫り、能登の親不知と呼ばれるほどの難所であった。緑色流紋岩は、縦横斜めの節理に従って海に浸食され、豪快かつ美しい景観をなす。厳冬期には、波が砕け綿花状となり風に乗って岩礁に踊る。波の花である。
 窓岩は、約二キロメートル続く曽々木海岸を代表する見所。三角形の大きな岩に、ぽっかりと穴が空いている。源義経が矢を射って穿ったという伝説がある。
 地学の見本のような光景がたくさんあり、学術的にも評価が高い。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します




間垣 Magaki Magaki

Jp En

 石川県輪島市の門前町あたりの西保海岸沿いに見られる、軒先より高い竹の垣根。
 西保海岸は、高さ八〇メートルにもおよぶ絶壁や巨大な岩礁がある秘境であり、冬の日本海から、強烈な季節風が吹き付ける。
 間垣は、その風から家屋を守るためのもの。
 高さは約五メートルに及ぶ。ニガ竹を隙間なくぎっしりと並べて垣根を作る。夏は涼しく、冬は暖かいのが、間垣の特徴。そこには、自然と一緒に生きる、能登の人々の生活の知恵を感じることができる。
 毎年十一月に入ると、冬の厳しい風に備え、間垣の修繕が行われる。秋の終わり、冬の到来を告げる風物詩である。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します




見附島 Mitsuke-jima Mitsukejima Island

Jp En

 能登内浦海岸にある小さな島。高さ約三〇メートル。その形から、別名軍艦島とも呼ばれている。引き潮の時間には、歩いて渡ることもできる。
 見附島の名前の由来は、かつて弘法大師が佐渡から能登へ布教の旅を続けていたとき、最初に見つけた島であり、故に、この名前がついたと伝えられている。
 見附島の頂上には神社が祀られ、漁業を生業とする者の信仰を集めた。かつては春祭りが大々的に行われていたが、今は対岸で氏子が祝詞を奉じるだけとなっている。
 現在は、キャンプ場や海水浴場などが整備され、名勝地としての見附島の顔と、レジャーが楽しめる能登内浦海岸の二つの面を持つ。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



記事数11件: 1~8 件表示     >>     >|  
NIPPON Kichi - 日本吉 - 日本語に切り替える NIPPON Kichi - 日本吉 - to english

モノ・コト・ミル・ヒトで綴る
日本の美意識。

現在の記事 5444
カテゴリーズ
都道府県
キーワードシャッフル
お気に入り
キーワード検索
閲覧履歴



Linkclub NewsLetter