NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/6/18


愛宕念仏寺 Odagi-nenbutsu-ji 

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 延喜一一(911)年に、醍醐天皇の勅願により比叡山の僧・千観(せんかん)により中興されたと伝えられているのが「愛宕念仏寺(おだぎねんぶつじ)」である。ここでは愛宕を「あたご」ではなく「おたぎ」と読む。
 奈良時代後期、聖武天皇の娘の称徳天皇がここに愛宕寺を建てたが、平安時代初期、鴨川の洪水で流され、廃寺となった。その後復興を命じられたのが千観だった。
 江戸時代中期の建物である朱塗りの仁王門は、鎌倉時代に造られたとされる阿・吽の仁王像が奉られている。また、重要文化財である本堂は、鎌倉中期の再建で、大正一一(1922)年に堂宇の保存のため、嵯峨の地へ移築された。本尊は「厄除千手観音」で、平安時代より厄除けの寺として厚く信仰されてきた。
 また、境内には石造り千二百羅漢といわれる凄まじい数の地蔵様がある。昭和五六(1981)年、寺の復興を祈願し、賛同した一般の参拝者が作り上げたもので、子供を抱いた地蔵様、酒を持った地蔵様、楽器を吹く地蔵様など、表情豊かに並んでいる。
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2007/10/17


昴 Subaru Subaru

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 青白く美しく光る高温の星の集団、プレアデス星団を日本では昴(すばる)とも呼んでいる。
 元々は一つに集まっているという意味の「すまる」が変化して「統ばる(すばる)」になったと伝わる。そして、その後中国での呼び名「昴宿」から「昴」を当てたとされる。
 日本で昴について書かれた最古の記録は、平安時代中期に醍醐天皇皇女勤子(きんし)内親王が、源順(みなもとのしたごう)に作らせた辞書「倭名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)」だと考えられている。この中での昴は「須八流」と記されているという。
 清少納言の「枕草子」二五四段には「星はすばる。ひこぼし。ゆふづつ。よばひ星、すこしをかし。尾だになからましかば、まいて。」と書かれており、枕草子の中でも最も美しく叙述されているといわれている。
 星を美しいと感じる人の心は今も太古の頃も変わらない。
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2007/6/18


能面 蝉丸 Noumen Semimaru Semimaru Noh Mask

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 能の演目「蝉丸(せみまる)」で専用に使われる男系の面で、醍醐天皇の皇子でありながら不幸にも盲目で生まれてしまい、父の命により逢坂山に捨てられてしまうという悲しみを漂わせている。顔立ちはあくまでも上品に憂いを含み、目は細長く開けられ、上瞼が被さる様に作られている。
 能面で同様の盲目の面に「弱法師」があるが、弱法師が庶民的な顔立ちに対して、高貴な生まれの蝉丸は気品が漂っている。特徴はやはり目であり、全体がくり抜かれていて、演者からすれば瞳だけしか開いていない他の面よりは視界が広くなる。彩色は白を強調したもので、髪の毛は汚れて何本か重なって太くなっている。
 逢坂山に捨てられた蝉丸の所へ逆毛の姉が尋ねてきて、二人で障害を持った身をなぐさめあい、そして悲しい別れの結末を迎えるという曲である。
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2007/5/29


空海 Kuukai Kukai

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 空海(くうかい)は、中国から密教を伝えた日本真言宗の開祖である。書道家としても、嵯峨天皇・橘逸勢と共に三筆の一人と言われる。
 宝亀五(774)年、四国の善通寺近くにて生誕、奈良の大学で学ぶが、儒学では社会の矛盾を解決できないと悩み、空海と名乗り修験者となる。
 延暦二三(804)年、最澄らと中国へ渡り、文化・宗教などを学び、翌年、密教の頂点に立つ青龍寺の恵果を訪れ、密教を継承。二年後に帰国、高雄山寺にて真言宗を興し、中国で学んだ知識を活かして各地で土木工事の指揮を取り、書道や絵画・彫刻の才能を発揮し、宗教家・社会事業家・芸術家として精力的に活動したが、承和二(835)年、3月21日に高野山にて病死する。
 天安元(857)年、文徳天皇は空海に大僧正の号を遺贈する。
 延喜二一(921)年、醍醐天皇が空海に弘法大師の諡号を贈る。
 弘法大師空海は、平安以後の日本仏教に多大な影響を与えた、数多くの伝説を持つ高僧である。
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2007/4/25


京都 醍醐寺 Kyoto-daigoji 

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 「醍醐寺」は、京都府京都市伏見区にある。
 874年、聖宝理源大師が堂宇を建立、准抵観音像・如意輪観音像を安置したのが始まりと言われている。
 その後「醍醐天皇」の御願により907年に「薬師堂」が、951年には「五重塔」1115年には「三宝院」が完成した。「五重塔」は、醍醐天皇の冥福を祈るために朱雀天皇が起工し、村上天皇即位後に完成した。京都府下最古の建造物で、内部の壁画は日本絵画の源流をなすといわれている。「三宝院」は寝殿造の様式が取り入れられた豪華なもので、池泉回遊式と枯山水の庭園が美しい。
 境内には、国宝や重要文化財が多数置かれている。また春になると「枝垂桜」が満開になり、豊臣秀吉が行ったといわれる「豊太閤花見行列」が催され、たくさんの人で賑わう。
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2007/4/19


神部神社 浅間神社 Kanbe-jinjya Asama-jinjya Kanbe Shrine / Asama Shrine

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 神部神社と浅間神社は、静岡県静岡市葵区にある神社である。同じ場所にある大歳御祖神社と合わせて、静岡浅間神社といわれる。
 神部神社は、駿河国開拓の祖神大己貴命を祭神として祀っている。崇神天皇の時代(紀元前100年頃)の鎮座と伝えられる。
 国府が定められてからは国司崇敬の神社となり、平安時代より駿河国の総社とされていた。
 浅間神社は、木之花咲耶姫命を祭神として祀っている。延喜元(901)年、醍醐天皇の勅願によって富士山本宮より勧請され、以来冨士新宮として続いてきた神社である。
 その広壮華麗な社殿や宝蔵群は、「東海の日光」と呼ばれており、素晴らしい迫力である。
 神部神社と浅間神社は、共に古い歴史を持つ別々の神社であり、現在でも「おせんげんさま」として深く信仰されている。
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2007/3/15


静岡浅間神社 Shizuoka-sengen-jinjya Shizuoka Sengen Shrine

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 静岡浅間神社とは、静岡県静岡市葵区にある、別々の3つの神社が集まっている場所である。
 神部神社は、駿河国開拓の祖神大己貴命を祀る。崇神天皇の時代(紀元前100年位)の鎮座と伝えられる。
 浅間神社は、木之花咲耶姫命を祀る。延喜元(901)年、醍醐天皇の勅願によって富士山本宮より勧請され、以来冨士新宮として続いてきた。
 大歳御祖神社は、大歳御祖命を祭神とする。応神天皇の時代(300年頃)の鎮座と伝えられ、元々は安倍川河畔の安倍の市(古代の市場)の守護神であった。
 漆塗り、極彩色の社殿群は、いずれも江戸後期の建築様式で、文化元(1804)年から60年の歳月をかけて再建された、広大なものである。社殿26棟が国の重要文化財に指定されている。
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2007/1/25


筥崎宮 Hakozaki-guu Hakozaki Temple

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 筥崎宮(はこざきぐう)は、福岡県福岡市東区にある神社である。日本三大八幡宮、日本三大楼門のひとつ。式内社(名神大)で、旧社格は官幣大社。
 筥崎宮(筥崎八幡宮)の祭神は応神天皇(主祭神)、神功皇后、玉依姫命(神武天皇の母)である。創建の時期は、平安時代の延喜二十一(921)年、醍醐天皇が神勅により、この地に壮麗な社殿を建立し、延長元(923)年、筑前大分宮より遷座したとされる。
 鎌倉中期、蒙古襲来(元寇)のおり、俗に言われる「神風」が吹き未曾有の困難に打ち勝ったことから、厄除・勝運・海上交通・海外防護の神としても崇められている。
 筥崎宮は、玉取祭や放生会大祭などの楽しい祭で四季を彩る杜として、今でも広く親しまれている。
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