NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/3/7


宝福寺 三重塔 Houfuku-ji Sanjuu-no-tou 

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 総社市の北西、秋葉山の山すそにたたずむ宝福寺(ほうふくじ)は、この地に生まれ後に画聖と称えられた雪舟が、少年時代に修行した寺。絵ばかり好んで経を読もうとしないので、寺の僧は雪舟を仏堂の柱にしばりつけた。しかし床に落ちた涙を足の親指につけ、床にねずみを描いたところ、僧はその見事さに感心し、雪舟が絵を描くことを許したという。山門近くには、柱に縛られた姿の雪舟のブロンズ像が置かれている。
 境内に立つ三重塔(国指定重要文化財)は、墨書銘から南北朝時代の永和二(1376)年に建てられたものであることが判明。岡山県下では二番目に古い三重塔である。高さ18・47m、本瓦葺、丹塗りで、軒の出が深く、室町時代初期の寺院建築の風格を備えている。
 塔内初層には須弥壇(しゅみだん)が設けられ、大日如来と脇侍四天王が安置され、天井には天女の絵が描かれている。
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2007/12/3


四天王寺 どやどや Shitennouji Doyadoya Shitennou-ji Doya-doya Festival

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 四天王寺(してんのうじ)は、大阪府大阪市天王寺区にある和宗総本山の寺院である。本尊は救世観世音菩薩で、西国三十三箇所番外、摂津国八十八箇所25番、聖徳太子霊跡1番札所とされている。
 推古天皇元(593)年、聖徳太子自らが建立した古刹である。
 どやどやは、天長四(827)年に修正会(しゅしょうえ)をはじめたのが起源とされ、日本三大奇祭に数えられている。
 元旦から始まる修正会は、その年の吉祥を祈り、天下泰平・五穀豊穣を祈願するもので、毎年一月一四日が結願日となっている。
 赤と白の二組に分かれた、鉢巻きとまわしをしめた裸の若者達が護符を奪い合う勇壮な行事で、その後に護符を受けようと、どやどやと群衆が集まる事から「どやどや」と呼ばれるようになった。
 四天王寺のどやどやは、今日でも盛況な伝統の神事である。
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2007/10/4


日蓮 Nichiren Nichiren

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 日蓮(にちれん)は、鎌倉時代の僧。日蓮宗の開祖。
 貞応元(1222)年、安房国(千葉県)に誕生。一二歳で天台宗の山岳霊場・清澄寺に入り、道善房を師として、四年後に出家。
 その後、比叡山を拠点に、京都や奈良の諸寺、四天王寺、高野山に遊学。念仏、禅、真言を経て、仏教の真髄を「妙法蓮華経(法華経)」に見出す。
 建長五(1253)年、「南無妙法蓮華経」と題目を唱え、清澄寺で立宗宣言し、名を日蓮と改める。
 他宗批判を目的とした『立正安国論』を著し、幕府や僧からの反発を招く。生涯、四度の法難をくぐり抜けた。
 晩年は、甲斐国(山梨県)の身延に隠棲し、信仰指導を続けた。『開目抄』、『観心本尊抄』などを著述。他に、「大曼陀羅本尊」を完成させた。
 武蔵国(東京都)にて、六一歳で死去。皇室から日蓮大菩薩と立正大師の諡号(しごう)が贈られた。
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2007/8/9


龍城神社 Tatsuki-jinja Tatsuki Shrine

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 龍城神社(たつきじんじゃ)は、愛知県岡崎市康生町の岡崎公園内にある神社である。祭神は、徳川家康、本多忠勝。
 その昔、三河の守護代・西郷弾正左衛門稠頼(さいごうだんじょうざえもんつぎより)がこの地に築城した日、龍神を名乗る乙女が天守に現れ「われを鎮守の神と崇めよ」と言った。以来、天守楼上に龍神を祀り、城の名を龍ヶ城と称えたという。
 寛永年間(1624~1643)、家康が岡崎城内で誕生したという由来から、岡崎東照宮が岡崎城の本丸で創祠された。
 明和三(1766)年、本多忠粛が東照宮を三の丸へと移座し、徳川四天王の一人・本多忠勝を、映世(えいせい)大明神として本丸に祀った。
 明治になると再び東照宮を本丸内に移して映世神社と合併、龍城神社と改称し、康生町に移転する。
 現在、神社は岡崎公園内にあり、社殿と岡崎城が隣り合っている。
 龍城神社は、長い歴史を誇る徳川家と本多家ゆかりの社である。
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2007/7/17


黒石寺蘇民祭 Kokuseki-ji-somin-sai 

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 黒石寺蘇民祭(こくせきじそみんさい)は、岡山・西大寺会陽、大阪・四天王寺のどやどやと併せ、日本三大奇祭の一つに挙げられており、千年以上の歴史を持つ祭である
 蘇民祭は旧正月7日の夜、水垢離をとった祈願者・厄年連が、黒石寺本堂、妙見堂を三巡して厄災消除・無病息災・家内安全・五穀豊穣を祈願する「裸参り」で幕開けとなる。次いで柴燈木(ひたき)と呼ばれる松の生木を井桁に組んで点火された炎の上に登り、火の粉を浴びて身を清める「柴燈木登り」の神事が繰り広げられ、「別当登り」、「鬼子登り」と続き、いよいよ夜明け近く、クライマックスの「蘇民袋争奪戦」へと移る。
 蘇民袋とは、「小間木」と呼ばれる六方型の木製の護符を入れた麻の袋で、集まった善男善女はこぼれ落ちる小間木を、裸の男たちはさらに境内の外になだれ出て麻の袋を肉弾戦を繰り広げて奪い合う。最後は、袋の首を持った者が取主(とりぬし)となって、争奪戦は終わるが、なだれ出た群衆が向かう方向などで、その年の豊作を占うという側面も併せ持つ。
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2007/7/4


西大寺会陽 Saidai-ji-eyou 

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 別名「はだかまつり」の西大寺会陽(せいだいじえよう)は、岩手県黒石寺の黒石裸祭、大阪市四天王寺のどやどやと併せ、日本三大奇祭として知られている。深夜の暗闇の中、寺の御福窓から投げ落とされる護符としての2本の宝木(しんぎ)を、数千人の裸の群衆が奪い合うという壮烈な祭りだ。
 元は限られた信徒に与えられていた護符が、ご利益があるとして希望者が増え、奪い合うようになったことが始まりとされる。
 毎年2月の第3土曜日の夜、西大寺に集まった男たちは垢離取場(こりとりば)で冷水を浴びて斉戒沐浴し、宝木投下に備える。
 一方宝木の争奪戦に参加できない女性たちは、男達の士気高揚と安全祈願のために会陽太鼓を打ち鳴らす。
 午前零時、福窓から2本の宝木が男たちの群れの中に投げられると、興奮は一気に頂点に達する。壮烈な争奪戦を縫って宝木を得た者は「福男」と呼ばれ、その年の幸福が約束されるといわれている。
 祭りの起源は、およそ1300年前にさかのぼると伝えられている。
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2007/4/20


大坂 四天王寺 Oosaka Shitennou-ji 

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 大坂の四天王寺は、大阪府大阪市天王寺区にある和宗総本山の寺院である。本尊は、救世観世音菩薩とされる。
 日本書紀によれば、推古天皇元(593)年に、聖徳太子によって開基されている。
 宗派は天台宗に属していたが、日本仏教の祖である聖徳太子建立の寺であり、「日本仏教の最初の寺」として、既存の仏教の諸宗派にはこだわらない全仏教的な立場から、1946年に和宗総本山として独立宣言を出している。
 近畿三十六不動尊1番、摂津国八十八箇所25番、西国薬師16番、聖徳太子霊跡1番など、様々な札所などに数えられている。
 創立以来度重なる火災や戦災により建造物の多くが失われており、現在の中心伽藍は戦後再建された物である。
 四天王寺は、聖徳太子縁の歴史ある古寺である。
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2007/3/28


毛越寺 Moutsuu-ji 

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 毛越寺は岩手県西磐井郡平泉町に位置する天台宗の寺社である。山号は医王山。
 嘉祥三(850)年、慈覚大師が白鹿の導きによりこの地に開山したのが始まりとされる。
 その後、火災により焼失するも、平安時代末期に藤原基衡により再興される。寺塔四十を数え、隆盛を極めたが、鎌倉時代、戦国時代末期に火災、戦乱により堂宇は焼失、近年再興された。
 本尊は平安時代作の薬師如来、脇侍に日光、月光両菩薩を従え、周囲に四天王を配する。
 国の特別史跡、特別名勝に指定されており、境内に復元された庭園は平安時期、作庭記流のもの。
 当時の庭園の造りを示す貴重な遺構として景勝を今に伝えている。
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