NIPPON Kichi - 日本吉

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2007/12/10


秩父 三峯神社 Chichibu Mitsumine-jinjya 

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 三峯という名は、神社の東方にそびえる雲取山、白岩山、妙法が岳の三つの峰が美しく連なることから呼ばれている。神社の由緒は古く、景行天皇が皇子の日本武尊を東国に遣わした時にさかのぼる。日本武尊は甲斐国(山梨)から上野国(群馬)を経て、碓氷峠に向う途中で、雲取山、白岩山に登り、眼下に広がる山川が清く美しい様子を見て、その昔に伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉册尊(いざなみのみこと)が国を生み出したことをしのび、お宮を造営して二神を祀ったのがはじまりとされる。
 現在三峯神社周辺には、日帰り温泉施設「三峯神の湯」、茶亭「小教院」があり、かつて修験の山として栄え、明治の神仏分離まで観音院と呼ばれていた時代の資料等を展示している「秩父宮記念三峰山博物館」などがある。
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2007/11/1


栃木 平和観音 Tochigi Heiwakannon Tochigi Heiwa Kannon

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 栃木の平和観音は、栃木県宇都宮市大谷町にある、大きな石仏である。
 昭和二九(1954)年、第2次世界大戦における日米両軍の戦没者の冥福を祈り完成、昭和三一年に開眼した、大谷石の採石場の跡に作られた観音仏である。
 石工の上野浪造が基礎を作り、彫刻家の飛田朝次郎が手彫りで穏やかな表情に仕上げた。
 平和観音は、高さ26.93m、胴回り20mもの大きさで、胸の高さには宇都宮市内を一望できる展望台がある。
 平和観音像の左手の側にある崖にはトンネルがあり、大谷寺側と行き来出来たが、崩落の恐れがあるため近年取り崩された。
 近隣には、大谷観音で有名な大谷寺もある。
 平和観音は、石の町大谷を象徴する巨大観音像である。
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2007/10/11


龍光院 Ryuukou-in 

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 龍光院(りゅうこういん)は縁起によれば、大同元(806)年、最澄(弘法大師)が四国八十八カ所霊場の開創を発願し成就したのを記念して、宇和島湾の九島に建立したのが始まりとされる。大師二回目の巡錫(じゅんしゃく)の際、島にあるのは不便だとして現在地に移された。寛永一五(1638)年に京都大覚寺二品親王空性が四国遍路の折り、臨海山福寿寺(ふくじゅじ)の号を与えた。昭和二〇(1945)年、大戦の空襲に見舞われたが、その後復興された。
 111段の石段を上るにつれ宇和島城が見えてくる。階段を上り切ると本堂や大師堂が現われ、境内には芭蕉の句碑や、大阪の俳人・椎本芳室(しいもとほうしつ)を称える宇和島最古の文学碑などが置かれている。本尊は十一面観世音菩薩。山頂にある白亜の除災招福大観音は平成二(1990)年、万民の平和と幸福を願い建立された。一石彫りとしては西日本随一の大きさを誇る。
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2007/8/30


大洗磯前神社 Ooarai-isozaki-jinjya Oarai Isozaki Shrine

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 茨城県大洗磯浜にある大洗磯前神社。創立は斉衡三(856)年。
 その頃、度々地震が発生して、人心が動揺し、国内が乱れていた。大己貴命(大国主神)はこうした混乱を鎮め平和な国土を築くために降臨されたと伝えられている。
 時代が下り、永禄年間(1558~1569)には兵乱のために、社殿以下の諸建造物がことごとく焼失。その後、江戸時代になって、水戸藩主徳川光圀は元禄三(1690)年、社殿の造営を起工し、次いで綱條の代には本殿、拝殿、神門にいたるまでの建造が完成した。
 現存する社殿、神門等は当時の建造物で、社殿の彫刻と共に徳川初期の様子を偲ぶ文化財として貴重なものとなっている。
 商売繁盛、家内安全、陸海空の交通安全、厄除招福、諸願成就の守護神、更には酒造の大神、病難に苦しむ人々を治癒してくださる医療厚生の大神と仰がれている。
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2007/8/10


宮平初子(人間国宝) Miyahira Hatsuko Miyahira Hatsuko (Living National Treasure)

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 首里の織物の第一人者である宮平初子の作品には、沖縄を愛し、平和を愛する彼女の気持ちも同時に織り込まれている。
 大正一一(1922)年首里に生まれる。幼少の頃より織物に深い愛着と造詣を抱き、沖縄県女子工芸学校に進学。やがて、日本民芸館の柳宗悦館長と出会い上京する。そこで、植物染料や紋織りの指導を受ける。二年後帰郷し母校の教壇に立つが、太平洋戦争で沖縄は廃墟と化してしまい、首里織物も絶滅の危機に陥ろうとしていた。宮平初子は首里織物の再建を願い首里織物の技術者の組織化に奔走した。昭和四七年、沖縄本土復帰後は那覇伝統織物事業協同組合を作るなど首里織物の技術復興と伝承に貢献、平成一〇(1998)年「重要無形文化財保持者」となる。
 首里の織物は、約500年の歴史を誇る伝統的な染織技法である。主に貴族の衣服として着用された。その織手は、士族の妻やその娘たちであったと言われている。
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2007/7/30


本成寺 節分鬼踊り Honjou-ji Setsubun-oni-odori 

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 節分鬼踊り(せつぶんおにおどり)は、全国で行なわれている節分豆まきの行事と同じく、法華宗総本山本成寺で行なわれる節分行事の一環である。
 本成寺は山号を長久山と号し、日蓮大聖人の法孫、日印尊聖人によって永仁五(1297)年に開創されたと伝えられる歴史の長い寺で、地元民のみならず、全国の信徒の信仰も厚い。
 行事では、鋸・斧などの刃物をふりかざす赤・緑・黄・青・黒の鬼どもと三途川婆(そうずかば)を、その年の年男、年女が豆を投げて退散させ、一年の平和と安全を祈る。
 豆を投げられて本堂から逃げ出した鬼どもは、境内にある「鐘楼堂」に逃げ込んで、鐘を撞いて改心するのだという。
 戦国時代に、戦乱に乗じた略奪兵を、本成寺の僧侶と農民達が力を合わせ退散させたという古事にのっとって行なわれたのが「鬼踊り」の起源だとされている。
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2007/6/12


鬼追い会式 Oni-oi-esiki 

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 鬼追い会式(おにおいえしき)とは、兵庫県姫路市の書写山にある円教寺にて毎年1月に行われる行事である。
 円教寺は天台宗の寺で「西の比叡」とも言われる名刹であり、鬼追い会式は開祖、性空上人が亡くなった1000年前から始まったとされる。
 会式では境内の邪気を焼き尽くして断ち切るため、赤鬼と青鬼が出てくる。赤鬼は毘沙門天の化身である若天、青鬼は不動明王の化身である乙天といわれ、赤鬼は槌を背負い鈴と松明を持ち、青鬼は宝剣を持つ。
 鬼であると同時に山の守護神であるため、角がないのが特徴である。
 かつて深夜に行われていた名残から、扉が閉じられて真っ暗になった摩尼殿の中を鬼がゆっくりと歩きたいまつを振り回す。
 鬼追い会式は、五穀豊穣と平和を祈る法会である。
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2007/5/31


妙立寺 Myouryu-ji Myoryuji Temple

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 初代藩主前田利家は、政治の理念を日蓮宗・法華経の中道精神に求め、藩を守る祈願所として妙立寺を建立。天正一三(1583)年のことである。その後、寛永二十(1643)年に、加賀三代藩主前田利常が現在の地へ移築・建立した。
 利常の頃は既に徳川幕府の基礎固めが整い、諸大名は幕府の隠密の動きに敏感になっていた。利常は隠密を欺くため鼻毛を伸ばしてバカを装った。が、その一方では産業を育て、芸能文化を勧め、いざという時の兵舎代わりとして寺院を移築、建立した。その中心が妙立寺であった。
 一見、二階建てのようであるが実は四階七層建て。隠し通路、隠し部屋、隠し階段、どんでん返し、逃げ穴、二枚戸、落とし穴として機能する賽銭箱、など、いたるところに仕掛け・からくりがある。別名、忍者寺、と呼ばれる由縁である。
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