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2008/8/28


備中国分寺 五重塔 Bicchuu-kokubun-ji Gojuu-no-tou 

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 備中国分寺(びっちゅうこくぶんじ)は、岡山県総社市上林にある真言宗御室派の寺である。本尊は、薬師如来。奈良時代に聖武天皇の発願によって鎮護国家を目的に建てた官寺である国分寺の一つで、天平一三(741)年の開基とされる。
 五重塔は、文政四(1821)年から弘化元(1844)年ごろまで20年以上かけて完成し、34.32mの高さを誇る。
 屋根の上層と下層がほぼ同じ大きさの細長い造りで、相輪も短く、江戸時代後期の様式を色濃く残す造りとなっている。木造、方3間、本瓦葺、鋳青銅製で、3層まではけやき材、4、5層は松材が主体となっている。初重の各面には十二支の彫刻が、内陣の仏壇上には釈迦、阿弥陀など4如来が安置されている。
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2008/7/24


吉備津彦神社 Kibitsuhiko-jinja 

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 吉備津彦神社(きびつひこじんじゃ)は岡山県岡山市の西に位置する神社である。古くから備前国の最も格の高い一宮として鎮座し、神社の背後にある吉備の中山は巨大な神の岩を有し、山全体が神の山として崇敬されてきた。
 吉備津彦神社は第一〇代崇神天皇(すうじんてんのう)の御世(紀元前一四八年頃)、この地を平定するために遣わされた大吉備津彦命(おおきびつひこのみこと)を祭神として創建されたと伝えられている。
 神社の正面八脚門の随身門をくぐると左手には大きな水盤舎、拝殿宝物館、神殿が建ち本殿へと続く。本殿は元禄時代(1688~1703)の建立で屋根は流造り、桧皮葺の流麗な様式であり県指定の重要文化財となっている。
 また、吉備津彦神社は夏至の日には太陽が正面鳥居の真正面から昇り、神殿の御鏡に入ることから朝日の宮とも称されている。
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最上稲荷(妙教寺) Saijou-inari(Myooukyou-ji) 

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 最上稲荷妙教寺(さいじょういなりみょうきょうじ)は岡山県岡山市にある寺であるが、日本三大稲荷の一つでもある。日蓮宗系の独立宗派である最上稲荷教の総本山になっており、明治の神仏分離令の折にも神仏習合を許されたお寺である。
 創建は岡山出身の僧で天平勝宝四(752)年に孝謙天皇のご病気を祈祷で快癒したとされる報恩大師(ほうおんたいし)といわれている。当初は龍王山神宮寺と呼ばれていたが、豊臣秀吉の備中攻めの折に焼失、慶長時代に日円上人が再興、その際に稲荷山妙教寺と改められた。
 寺前の参道には神仏習合を思い起こさせるように鳥居が立っているが、山門にいたっては薬医門である。石段を登り山上に行くと巨大な本堂が建てられている。さらに上に上がると報恩大師が修行をしたといわれる八畳岩や旧の本堂跡があり、周りには多くのお稲荷さんが祀られている。本堂跡付近では他の寺にはない神秘的な雰囲気が漂っている。不思議な感覚を呼ぶお寺である。
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2008/6/25


津山城(鶴山城) Tsuyama-jou(Tsuruyama-jou) 

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 津山城(つやまじょう)、別名鶴山城(つるやまじょう)は岡山県津山市に築かれていた城である。
 慶長八(1603)年に本能寺で織田信長とともに討ち死にした森蘭丸の弟、森忠政が一三年の月日を費やし津山城を築いたのである。その後、越前松平家の一族であった松平宣富が明治まで城主を務めた。
 残された書物から、津山城は小倉城を参考に築かれているという、全体の構成は三の丸、表中門、二の丸、表鉄門、本丸となり、内部は迷路のようになっていた。全体的にもかなり大きな輪郭の城であり、本丸もかなり広く雄大な天守閣を備えていた。津山城は地方大名の城としてはかなり荘厳で立派なものであったため、幕府から厳しく追及されたこともあったという。
 昭和一一年に津山で開催された博覧会の時に天守閣が再現されたが、太平洋戦争のさなかに空襲の目標になるという理由で解体されてしまった。
 現在城跡は鶴山公園として整備され、桜の名称となり、備中櫓が再現されている。
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2008/5/1


鬼ノ城址 kino-joushi 

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 鬼ノ城址(きのじょうせき)は、岡山県総社市奥坂にある城跡である。
 築城の時期については諸説あるが、大和朝廷が朝鮮半島の百済軍救援のため出兵した、天智天皇二(663)年の白村江の海戦において大敗した後、唐・新羅連合軍の日本侵攻を恐れ、急ぎ西日本各地に築城した城のひとつと考えられている。
 吉備高原の南端に位置する標高400mの鬼城山に築かれた山城で、全周約2.8kmの城壁が築かれ、城門が4ヶ所、排水機能をもつ水門が6ヶ所存在していた。
 快晴時には、瀬戸内から遠く四国の山並みも望見される眺望絶景の地で、現在は公園として整備されており、角楼や西門を復元し、城壁に沿って遊歩道が整備され、ハイキングコースとしても脚光をあびている。
 鬼ノ城址は、長い歴史を誇る古代山城跡である。
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2008/4/25


烏城紬 Ujou-tsumugi 

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 烏城紬(うじょうつむぎ)は、岡山市伊福町に伝わる絹織物である。県の伝統工芸品に指定されている。
 寛政一〇(1798)年、塩分に強い綿栽培が発達した児島湾干拓地の灘崎村迫川・宗津あたりを中心に興った袴地織りが、その始まりとされている。
 安政年間(1854~1860)、着尺紬(きちゃくつむぎ)が多く織られるようになり、備前池田藩はこれらに岡山城の別名である烏城の名を付け、保護奨励したとされる。
 大正に入って綿を絹に代え、くず生糸を利用して緯糸(よこいと)に「からみ」の技法を加え、現在の烏城紬が誕生したという。
 手紬ぎ、高機による手織りのため緯糸打ち込みにばらつきが多く、これが糸の鈍い光沢と共に素朴な味わいを呈している。
 烏城紬は、丈夫でしなやか、保温性も抜群な伝統の絹織物である。
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倉敷はりこ Kurashiki-hariko 

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 倉敷はりこ(くらしきはりこ)は、岡山県倉敷市に伝わる民芸品である。県の伝統工芸品に指定されている。
 明治二(1869)年、雛人形や武者人形を作っていた職人である生水多十郎(おみずたじゅうろう)が、男の子の誕生を喜び張り子の虎を創作した。それが評判となり、節句の飾り物として使われるようになったという。これが、「倉敷はりこ」の始まりとされている。現在は、4代目の生水幹一(おみずかんいち)が、その伝統を守っている。
 はりこは、木の型を作り、それに和紙を何枚も張り合わせて乾燥させ、固まった紙を型から外して色付けされているのが特徴。
 素朴さが身上で、おどけたユーモラスな顔がかわいい。品物も、鬼・天狗・おかめ・ひょっとこ・素隠居(すいんきょ)の面・首振虎・十二支など、豊富な種類を誇る。
 倉敷はりこは、素朴さの中に郷土色が息づく伝統玩具である。
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2008/3/7


宝福寺 三重塔 Houfuku-ji Sanjuu-no-tou 

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 総社市の北西、秋葉山の山すそにたたずむ宝福寺(ほうふくじ)は、この地に生まれ後に画聖と称えられた雪舟が、少年時代に修行した寺。絵ばかり好んで経を読もうとしないので、寺の僧は雪舟を仏堂の柱にしばりつけた。しかし床に落ちた涙を足の親指につけ、床にねずみを描いたところ、僧はその見事さに感心し、雪舟が絵を描くことを許したという。山門近くには、柱に縛られた姿の雪舟のブロンズ像が置かれている。
 境内に立つ三重塔(国指定重要文化財)は、墨書銘から南北朝時代の永和二(1376)年に建てられたものであることが判明。岡山県下では二番目に古い三重塔である。高さ18・47m、本瓦葺、丹塗りで、軒の出が深く、室町時代初期の寺院建築の風格を備えている。
 塔内初層には須弥壇(しゅみだん)が設けられ、大日如来と脇侍四天王が安置され、天井には天女の絵が描かれている。
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