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延喜一一(911)年に、醍醐天皇の勅願により比叡山の僧・千観(せんかん)により中興されたと伝えられているのが「愛宕念仏寺(おだぎねんぶつじ)」である。ここでは愛宕を「あたご」ではなく「おたぎ」と読む。
奈良時代後期、聖武天皇の娘の称徳天皇がここに愛宕寺を建てたが、平安時代初期、鴨川の洪水で流され、廃寺となった。その後復興を命じられたのが千観だった。
江戸時代中期の建物である朱塗りの仁王門は、鎌倉時代に造られたとされる阿・吽の仁王像が奉られている。また、重要文化財である本堂は、鎌倉中期の再建で、大正一一(1922)年に堂宇の保存のため、嵯峨の地へ移築された。本尊は「厄除千手観音」で、平安時代より厄除けの寺として厚く信仰されてきた。
また、境内には石造り千二百羅漢といわれる凄まじい数の地蔵様がある。昭和五六(1981)年、寺の復興を祈願し、賛同した一般の参拝者が作り上げたもので、子供を抱いた地蔵様、酒を持った地蔵様、楽器を吹く地蔵様など、表情豊かに並んでいる。
奈良時代後期、聖武天皇の娘の称徳天皇がここに愛宕寺を建てたが、平安時代初期、鴨川の洪水で流され、廃寺となった。その後復興を命じられたのが千観だった。
江戸時代中期の建物である朱塗りの仁王門は、鎌倉時代に造られたとされる阿・吽の仁王像が奉られている。また、重要文化財である本堂は、鎌倉中期の再建で、大正一一(1922)年に堂宇の保存のため、嵯峨の地へ移築された。本尊は「厄除千手観音」で、平安時代より厄除けの寺として厚く信仰されてきた。
また、境内には石造り千二百羅漢といわれる凄まじい数の地蔵様がある。昭和五六(1981)年、寺の復興を祈願し、賛同した一般の参拝者が作り上げたもので、子供を抱いた地蔵様、酒を持った地蔵様、楽器を吹く地蔵様など、表情豊かに並んでいる。
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