NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/8/26


朝日文楽 Asahi-bunraku 

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 明治初期、朝立浦の井上伊助が、松ノ木の瘤や桐の木で、人形の頭や胴体を作り、一口浄瑠璃で人形を操ったことが朝日文楽の起こりとされている。
 その後、徳島県の平六座から本格的な頭、衣装、道具を購入し、財産家、地区住民の支援によって次第に整えられていった。
 人形は一体およそ20キロ。人形一体を3人で動かす。また眉や眼が動く仕掛けもあり、喜怒哀楽の表情や、見栄を切るときの表情に迫力をつけることもできる。
 明治四三(1910)年、大阪の道頓堀の朝日座を模して、朝立の埋立て地に芝居小屋「朝日座」が建てられ、その朝日座を中心に活躍したことから、朝日文楽と命名された。
 以来、戦争などによる盛衰や、高齢化などの問題はあったものの、郷土の誇りとして保存伝承するため、町をあげて努力している。
 昭和三九(1964)年に愛媛県指定の重要文化財にもなり、ますます注目されている。 
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2008/8/21


【蔑】 Betsu, Naigashiro to despise, to neglect

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 蔑視の蔑ですが、字源を理解するためには、殷代の呪儀と戦争のやり方にさかのぼることになります。
 普通、草冠の字は植物を表しますが、これは横向きになっている「目」と一体になっています。これは異民族の媚女(シャーマン)の、頭の部分を表しています。「寛」の字説にあるように、目・眉に呪飾をつけた媚女の頭を表します。
 下の部分「戌」は武器の戈・矛です。この字は敵である異民族の媚女の頭を戈・矛で切ることを表します。
 媚女は前衛部隊として相手を霊的に威嚇する役割をもっていました。殷代の戦争は敵の媚女と威嚇しあってから始まったのです。「蔑ろ(ないがしろ)にする」という意味は、媚女を「殺す」ことによって、その呪力を失わせるということから生まれました。
 
■蔑・甲骨文(こうこつぶん)
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2008/8/7


【掃】 Sou, Haku to sweep

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 「掃」のもとの字は「婦」と同じ「帚」です。手偏はずっと後に加わりました。最初の甲骨文の形は非常に簡単で、明らかにただの箒(枝箒)の形です。
 甲骨文は、古代の聖職者集団が作ったものですので、このような字となった掃除は神聖な作業として想像しなければなりません。祖先を祀る霊廟で謹んで行われているものでした。現在のように箒で掃くこともありましたが、箒で特に香りのよいお酒を注ぎ、霊廟を祓い清めることが礼儀になっていました。今の線香を焚くようなものでしょう。
 旧字体の「帚」の上部分は「手」を表し、真ん中の線が右側に出ているのは、掃くときに大事な手首の関節を含めた手の部分を示します。しかし、常用漢字の省略字体では、ほとんど指しか残らないことになりました。
 また「帚」は「帰」の旧字体である「歸」にも登場します。これは戦争から帰ってきた軍が、霊廟に祭肉をもって報告する儀式をかたどります。そのときも箒とお酒で霊廟を祓い清める習慣がありました。
 
■ 掃・甲骨文(こうこつぶん)
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2008/8/1


【暦】 Reki, Koyomi Calendar

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 この字が「こよみ」という意味を持つようになった由来は「歴」と共通しています。両方ともに軍隊的な背景があり、これは崖の下に行われている表彰式を表します。戦争のときには決戦日が終戦日になることがあります。戦勝時には軍人一人一人の手柄を表彰します。その日が終戦記念日になりました。世の中のどこでも、記念日についての考え方は漢字成立の3000年以前とあまり変わらないようです。
 崖の下はよく祭場になりました。大変強い霊的な場所と考えられたのです。そして崖の下に両禾(りょうか)で門を作ります。「暦」の上の「厤」は、こうしてつくられた門を表します。
 ヨーロッパなどでは、ローマや旧ローマ帝国の町、パリの凱旋門(ラルク・ドゥ・トリオンフ)のように、石からできている建築の形になりますが、基本的に戦争勝利記念の軍門を立てることは他の世界にもありました。
 このように、日付に関係した字なので、「暦」の下の「曰」の部分は日々の日をあらわすとおもわれがちです。しかし、崖の下に両禾で門を作るように、これは神との交信をあらわしているので、これは祝詞の器を表す「曰(えつ)」の意味となります。
 
■暦・金文(きんぶん)
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2008/7/24


西宮神社 Nishinomiya-jinja Nishinomiya Shrine

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 西宮神社(にしのみやじんじゃ)は銘酒灘五郷の一つである兵庫県西宮市の中央に鎮座する神社である。日本に3500社もあるえびす神社の総社であり、地元では西宮のえべっさんとして親しまれている。
 創建時期は定かではないが、古い文献によると承安二(1172)年にその名がうかがえる。室町時代に大流行した七福神信仰の中心として謡曲、狂言などを通じて全国にその御神徳が知れ渡っていった。大阪文楽や淡路の人形浄瑠璃は西宮神社のえびす舞がルーツといわれている。その後も、豊臣家、徳川家からも篤い寄進を受け、商業の発展とともに商売繁盛の神様として大きく躍進していった。
 太平洋戦争では戦火に見舞われたが、昭和三六年に見事に復元された。室町時代建立の大練塀と桃山建築様式の表大門は国の重要文化財に指定されている。
 新年の初め、一月九日から一一日の三日間は十日えびすとして100万人を越える人々が訪れ賑わいを見せる。
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沖縄 波上宮 Okinawa Naminoue-guu Okinawa Naminoue-guu Shrine

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 波上宮(なみのうえぐう)は沖縄県那覇市に鎮座する神社であり、沖縄の総鎮守である。名前の通り神社は浜辺の岸壁の頂上に位置している。
 創建に関しては定かでないが、元々は沖縄独自の理想郷を求めるニライカナイ信仰の聖地であったといわれている。しかし、一四世紀頃に琉球政府が神のお告げにより熊野三神を祀り波上宮として造営したという。太平洋戦争で全てが破壊されたが、戦後ハワイ沖縄県人会の人々の努力などによって再興された。
 参道を進み二つの鳥居をくぐると朱色の社殿がそびえ同じく朱色に彩られた沖縄の魔よけであるシーサーに似た狛犬が見守っている。境内には二つの社、天照大神を祀る浮島神社と沖縄の産業の神様を祀る世持神社がある。また、波上宮のすぐそばには護国寺や孔子廟があり、繁華街近くということもあり正月の初詣などには沖縄独特の雰囲気の中多くの人が訪れる。
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2008/7/9


津観音寺 Tsukannon-ji 

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 津観音寺(つかんのんじ)は、三重県津市にある真言宗の古刹である。
 正式には「恵日山観音寺」と称し、地元の人々からは「津の観音さん」として親しまれている。
 和銅二(709)年の開山で、御本尊は阿漕浦の漁夫の網によって出現されたという、聖観世音菩薩で秘仏となっている。
 浅草と大須に並び、日本三観音の一つに数えられており、全国の人々から海上安全や五穀豊穣、所願成就の観音様として深く信仰を集めている。
 時々の権力者達からの庇護も篤く、室町時代には将軍足利義教が勅命を奉じて三重塔を建立し、江戸時代には歴代将軍家や津藩主藤堂家の祈願所として特別の加護を受けていた。
 太平洋戦争時は空襲で伽藍の多くが焼失するも戦後に復興、幸いにも難を逃れた「弘法大師画像」や「豊臣秀吉朱印状」、「千利休書状」など数多くの文化財を有する名刹としても知られる。
 平成一三(2001)年には県内唯一の五重塔が完成し、その隆盛を今も放ち続けている。
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2008/7/7


鉢金 Hachigane 

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 鉢金(はちがね)とは、激剣闘争を行う時、前額部に来る相手の剣を防ぐ為に自分の頭部にまきつけて用いた金属または鉄板の事で、額の兜、あるいはヘルメットともいえる存在である。
 手ぬぐいなどの布でくるんで額に鉢巻状に結んで使用したもので、鉄のはちまきである事からこの名が付いたと言われている。
 鉄製のため、少々の衝撃では傷はつかないという。
 ただ額を防御するためだけではなく、目に血が入るのを防ぐのにも効果があるともされている。
 その防具の性格から、幕末の戊辰戦争の兵士や新撰組などで使用された事で知られ、現在も実際に使用されたものが多くの残されているという。
 鉢金は、鉢巻などに縫いつけて、もっぱら前頭部を保護する、簡略な兜の一種である。
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