NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/10/1


さつま焼 Satsuma-yaki 

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 さつま焼は、鹿児島県に古くから伝わり、四百年の歴史を持つ伝統工芸品である。
 起こりは江戸時代に遡る。元禄・慶長の役の頃、当時の薩摩藩主・島津義弘が朝鮮から陶工を薩摩に連れ帰ったのが始まりだ。その陶工たちが研究を重ねて薩摩の土と向き合い生まれたのがさつま焼である。
 最大の特徴は、白土を使ったその白い焼き色。その高貴な風合いは白もんと呼ばれ、藩主のみに使用が許されたという。また、赤、青、緑、金彩で彩色する豪華で繊細な金襴手という高度な手法や、小刀で緻密な透かし彫りを行うのも特徴のひとつ。さつま焼には陶工たちのたゆまぬ努力の証、繊細で優雅な技が尽くされているのだ。
 慶応三(1867)年にはパリ万博に出展、大絶賛される「SATSUMA」の名を世界に轟かせた。平成十四年には経済産業大臣指定伝統的工芸品に指定されている。
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2008/2/7


木牟礼城趾 Kinomure-joushi 

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 木牟礼城趾(きむれじょうし)は鹿児島県出水郡にある城跡である。
 文治二(1186)年近衛家に仕えていた島津忠久が薩摩、大隅、日向三国の地頭職に任ぜられた。忠久は家臣の本田貞親に命じて、山門院、現在の野田町、高尾野などの地区に木牟礼城を築き三州(三国)を監視した。島津忠久自身は居城することはなかったが、本田貞親は城内に竹林城を築き、ここを居住地としていたと伝えられている。
 その後、島津忠久は鎌倉幕府の信頼を厚く受け、この城を中心に島津三州支配の基礎を作ったといわれている。
 しかし、南北朝時代に入ると島津氏の総州家と奥州家両家で勢力争いが起き、木牟礼城を拠点としていた総州家の島津守久は奥州家の久豊に攻められ、城は落城してしまい、木牟礼城もその役割を終えてしまったのである。
 現在は高尾野町江内の国道3号線沿いの台地に忠久を祀る「龍尾神社(若宮神社)」があり、笠懸道、水の手口、西御門等の跡が残り、石碑が建てられている。
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2008/1/30


加世田 水車からくり Kaseda Suisha-karakuri 

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 毎年七月の鹿児島県の夏の風物詩「六月灯」に合わせて、加世田市・竹田神社、知覧町・豊玉姫神社、吹上町・温泉祭りの三ヶ所では「水からくり」が奉納される。
 浄瑠璃風の武者人形が舞台に立ち親しみのある演目を披露するのだが、これを人の手ではなく水車の動力を利用して行っている。
 加世田市・竹田神社のからくりは他二ヶ所と異なり、人形が実物大ほどに大きく、馬に乗った姿が多い。
 神社の川の上に舞台、下に水車と歯車を設置し、動力を舞台上の人形へ伝える。人形は、ゆったりとダイナミックに動く。
 演目は川中島の合戦、北条時宗と元寇など勇ましい内容だ。
 全国で唯一の水車によるからくり人形で、「薩摩の水からくり」として昭和五九年に国選択有形民俗文化財に指定されている。

 
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2007/9/18


枚聞神社 Hirakiki-jinja 

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 枚聞神社(ひらききじんじゃ)は、鹿児島県指宿市開聞十町にある神社である。祭神は、大日孁貴命(おおひるめむちのみこと)他八柱。
 創建は定かでないが、社伝では和銅元(708)年とも伝えられている。
 朱塗りの社殿は慶長一五(1601)年、島津義弘が再興し、天明七(1787)年に島津重豪(しまづしげひで)が改修したもので、後ろにそびえる開聞岳の緑に社殿の朱が良く映える、美しい景観を誇る。
 薩摩国の一宮であるが、新田神社も「薩摩国一宮」を名乗っており、鎌倉時代から互いに一宮を巡り争ってきた。
 外洋に面した立地から、古くから「航海神」としても崇められ、江戸時代以降は琉球からの使節の崇敬も集めるようになった。
 枚聞神社は、神代より続く長い歴史をもつ古社である。
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士踊り Samurai-odori 

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 士踊り(さむらいおどり)は、鹿児島県南さつま市加世田の竹田神社にて毎年七月二三日に奉納されている神事である。県の無形民俗文化財に指定されている。
 竹田神社は、室町時代の文明一七(1485)年に保泉寺として創建された寺が、明治六(1873)年、神社として再建されたもので、祭神は島津忠良。
 踊りは、戦国時代の薩摩領主・島津忠良が、三州を平定した長男貴久を慰安するために始まったといわれている。
 はじめに奉納される二才踊りは陣羽織、帯刀姿の大人たちが歌いながら静かに歩を進め、勝ちどきを上げたり、四股を踏むしぐさで舞い、続く稚児踊りは、鎧武者に率いられた百衣陣羽織姿の少年たちが円陣を組み、ゆっくり回りながら締め太鼓などを奉納する。
 士踊りは、武士の士気を鼓舞する勇壮な郷土芸能である。
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2007/9/10


開聞岳 Kaimon-dake Mt. Kaimondake

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 開聞岳は、鹿児島県の南端にある指宿市に位置する、標高924mの山である。日本百名山の一つに選ばれている。その見事な円錐形から、別名薩摩富士とも言う。
 貞観一六(874)年と仁和元(885)年に大噴火した。この時、山頂に溶岩円頂丘が噴出し、現在、目にしている二段式の山容となった。
 らせん状の登山道が整備され、山頂には枚聞神社奥宮御岳神社があり、山自体が御神体とされる。
 頂上からの眺望は圧巻で、北の霧島、南の屋久島と、鹿児島の観光名所を見渡すことができる。
 裾野では春は菜の花が咲き、秋はハゼが紅葉する。全山、照葉樹林で新緑の頃も綺麗である。
2合目には亜熱帯の自然公園「開聞山麓自然公園」があり、近くには温泉地も存在する。
 開聞岳は、美しい自然と山容を誇る雄山である。
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知覧武家屋敷庭園 Chiran-bukeyashiki-teien Old Samurai Gardens in Chiran

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 知覧武家屋敷庭園(ちらんぶけやしきていえん)は、鹿児島県南九州市知覧町(旧・川辺郡知覧町)にある江戸時代の武家屋敷群で、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。
 約260年余り前、知覧領主・島津久峰時代の武士小路区割の名残り。現在、武家屋敷通りと屋敷庭園が保存されている。
 7軒の屋敷の庭園が見学でき、うち6軒は枯山水式庭園、1軒は築山池泉式庭園となっている。
 薩摩の小京都と呼ばれるにふさわしい佇まいを保ち、武家屋敷群は「人をもって城となす」という薩摩藩の気風を推し進めた外城のひとつとされる。
 各屋敷が塁のように防衛障壁となるよう工夫されており、端正にして優美、虚飾に走らず簡素を旨とした、薩摩武士の知性と上品さが伺える。
 知覧武家屋敷庭園群は、江戸の昔を思い起こさせる街並みである。
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薩摩硫黄島 Satsuma-iou-jima 

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 薩摩硫黄島は、鹿児島県鹿児島郡三島村にある東西5.5km、南北4kmの火山島で、竹島、黒島とあわせて鹿児島郡三島村を構成している。
 この島は、6300年前に大噴火した鬼界カルデラの縁にできた山であり、主峰の硫黄岳は標高703.7mの、硫気活動が盛んな火山である。
 噴気が活発で、島のあちこちから温泉が噴出し、海水を異様な色に変色させている。その姿はマグマ溜まりから突き出した煙突のようにも見える。
 日本史において鬼界ヶ島を名乗っていたと考えられている島の一つであり、硫黄のために島の周辺海域が黄色に変色していることから「黄海ヶ島」と呼ばれ、これが「鬼界ヶ島」に書き換えられたとの説もある。
 薩摩硫黄島は、活火山によって成り立つ南国の島である。
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