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2008/7/10


聖徳太子絵伝 Syoutokutaishi-eden 

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 聖徳太子絵伝(しょうとくたいしえでん)は、東京都台東区上野公園の東京国立博物館が所蔵している大和絵である。国宝に指定されている。
 延久元(1069)年、現在の大阪である摂津国の絵師・秦致貞(はたのちてい)により描かれた。
 奈良時代に始まった太子への信仰をもとに、太子の事績を描いたもので、元々は法隆寺東院の絵殿を飾っていた障子絵だったが、江戸時代に屏風に改装され、近年、10面のパネル装にされた。
 現存する聖徳太子の絵伝の中では最も古いもので、平安時代の装束に身を包んだ聖徳太子や、厩の前で太子を生む間人皇后、崇峻天皇を弑逆する蘇我馬子(そがのうまこ)など、よく知られた歴史の場面が登場する。
 聖徳太子絵伝は、初期大和絵の代表作と言われる説話画である。
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2008/6/13


伊藤若冲 Itou-Jakutyuu 

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 伊藤若冲(いとうじゃくちゅう)は、江戸時代の絵師である。
 正徳六(1716)年、京都・錦小路の青物問屋の跡取り息子として生まれる。
 二二歳で父が没した後家業を継ぎ、そのかたわら狩野派に学ぶが、やがて画塾を辞め、独自に中国画を模写するようになったといわれる。
 四〇歳で家業を弟に譲り、生涯妻子を持たず絵画制作に専心、濃彩の花鳥画と水墨画に異色の画風を作りあげた。
 若冲は、絵を描く事以外世間の雑事には全く興味を示さなかったと言われている。
 代表作の「動植綵絵」(どうしょくさいえ)は、鶏、鳳凰、草花、魚介類など身の回りの動植物をモチーフに描いた色彩豊かな作品で、以後も筋目描きや枡目描きといった珍奇な技法やユニークな版画など、多彩な作風を試している。
 寛政一二(1800)年、没。
 伊藤若冲は、超絶した技巧や奇抜な構成で、奇妙で不思議な作品を作り続けた絵師である。
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2007/9/28


日光彫 Nikkou-bori Nikko Carving

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 日光彫(にっこうぼり)は、栃木県日光市に伝わる伝統工芸品である。
 寛永一一(1634)年、三代将軍徳川家光は、東照宮を現在の荘厳な社殿に造り替えることを宣言し、全国から宮大工、彫物大工、漆工、金工、絵師など名匠たち延べ168万人を集めた。
 そのうち彫物大工は40万人もおり、これらが仕事の余暇に彫ったものが、日光彫の起源といわれている。
 東照宮完成後、日光に残った彫物大工たちは東照宮の補修や整備にあたる一方、お盆や箪笥などを彫り続け、日光見物に訪れる人々にお土産として売った。また、明治以後は盛んに輸出された。
 樹種は主に栃の木を用い、高級品には彫刻の上に堅地漆で仕上げた日光堆朱塗(ついしゅぬり)が存在する。
 日光彫は、木の持つ暖かさと一つずつ丹念に彫り上げた手作り感が心地よい伝統工芸品である。
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2007/8/15


七夕絵灯篭まつり Tanabata-edourou-matsuri Tanabata Edoro Matsuri

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 七夕絵灯篭まつりは毎年八月、秋田県湯沢市で行われる祭りである。
 太い青竹に短冊や紙細工などを下げ、夜には美人画などが描かれた大小の絵灯篭を掲げ、明かりを灯す。
 この祭りは、秋田藩佐竹南家五代目義安公に、京都の公卿、鷹司家から嫁いだ姫君が、京都への郷愁を短冊に記し青竹に飾ったことが始まりと言われ、それを知った町民が家々に短冊や吹流しを青竹に吊るし、悲しみが去ることを願ったのが今の祭事になったと言う。
 元々は短冊や工夫を凝らした紙細工などが主体だったが、明治時代以降に絵灯篭が作られ、現在の形になったと言われる。
 絵灯篭は市民プラザ内にも展示されており、祭りの期間外でも見学することが可能である。
 姫君の心を慰めるための秋田の幻想的な夏祭りは、多くの人々を魅了してやまない。
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2007/7/12


鳥獣戯画 Chou-juu-giga Choju Giga Scroll

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 鳥獣戯画は京都嵐山、栂尾山高山寺に伝わる絵巻物である。
 正しくは「鳥獣人物戯画巻」と称される。甲、乙、丙、丁の全四巻、国宝。
 平安時代末期から鎌倉時代前期、天台宗座主、鳥羽僧正覚猷(とばそうじょうかくゆう)の作とされるが、複数の人物の作品をあわせたとも言われる。
 動物を擬人化して描いたもので、兎、猿、蛙などを始め牛、犬、麒麟などの神獣も描かれている。内容は当時の世相をおおらかに風刺したものだが、一部脱落があり不明な点もある。
 擬人化や動きを表す効果線などが多く使われており、現在の漫画やアニメーションの元祖であると言われている。
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2007/6/21


尾形光琳 Ogata Kourin Ogata Korin

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 江戸時代の画家、工芸家。万治元(1658)年-享保元(1716)年六月二日(7月20日)
 京都の呉服商雁金屋の次男として生まれた。
 光琳三〇歳の頃、父が亡くなった。この頃には雁金屋の経営は破綻していたが、元々遊び人だった光琳は遊興三昧の日々を続け、経済的困窮が一因で、元禄一四(1701)年頃画業を始めた。
 光琳は公家、大名、役人等に多くのパトロンを持っており、ニ条家にも出入りしていたとされる。
 宝永元(1704)年頃、京の役人であった中村内蔵助が江戸詰となり、頼りに江戸へ下った。江戸でも大名や豪商等のパトロンがいたが、宝永六(1709)年には京都に戻った。
 作品は、大画面の屏風、香包、扇面、団扇、手描きの小袖、蒔絵、実弟の尾形乾山の作った陶器への絵付け等、さまざまな作品を残した。特徴として、大体な構図や独特のリズム感、華やかな画面構成は「琳派」と呼ばれる画派の代表的画家とされ光琳模様という言葉を生んだ。
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2007/6/4


禅源寺 五百羅漢図 Zengen-ji Gohyakurakan-zu The paintings of Gohyaku Rakan at Zengenji Temple

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 禅源寺(ぜんげんじ)は、北海道古平郡古平町浜町にある曹洞宗の寺である。
 安政五(1858)年、「勧請開山」祖山泰堂二代、大和尚によって開基された。松前町法源寺の末寺でもある。
 五百羅漢図(ごひゃくらかんず)は、禅源寺が所有する480枚に及ぶ油絵で、本堂にて保管されている。
 大正八(1919)年、種田富太郎は樺太漁場を切り上げての帰途、利尻沖の大時化で遭難し、2昼夜漂流の後に救助された。
 富太郎は日頃信仰している観音菩薩のおかげであると、五百羅漢の寄進を発願し、林竹次郎により製作され、約20年の歳月を要して完成し、寺に納められた。
 禅源寺の五百羅漢図は、仏像では傷みやすく、日本画では保存に困難と考えた末、珍しく洋画で描かれたという仏画である。
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2007/5/21


大井宿 Ooi-juku 

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 江戸から数えて46番目にあたる美濃中山道の「大井宿」は、天保一四(1843)年の当時で、本陣、脇本陣が各々1軒、旅籠は41軒もあり、中山道で最も賑わった宿場といわれた。
 中山道の宿場の特徴でもある桝形は他の地より多く、横町、本町、竪町、茶屋町、橋場の5つの町を、それぞれ6ヶ所の桝形によって区切られていた。
 大井宿より京に向った旧中山道には、大井で没した西行の墓があり、そばには、ここの清水で墨を磨ったとされる西行硯水公園等がある。
 現在の中心部、恵那駅と平行に抜ける中山道を進むと、市神神社、本陣跡、長国寺へと続く。更にそこから道を上ると、郷土の歴史に残る根津甚平ゆかりの根津神社、甚平坂、馬塚犬塚がある。また、浮世絵師の歌川広重(安藤広重)は、この甚平坂から見下ろした景色を木曽街道六十九次の大井宿の絵に用いた。
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