NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/8/29


はりみ(紙製ちりとり) Harimi(Kamisei-Chiritori) Harimi (Paper Dustpans)

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 まだ日本の家屋に和室が多かったころ、日々の簡単な掃除は箒とちりとりだった。
 さっと掃いて、さっと取る。その簡素な動作が、日々の暮らしを清潔なものにしていた。
 最近はそのような光景も余り見かけなくなってきたが、今の多種多様化するライフスタイルに、本当にそれらは合っているのだろうか。
 ちょっとした掃き掃除にもわざわざ掃除機を引っ張り出し、ちょっと使ってまたしまう。
 なら、いっそのこと昔のようにこのはりみ(紙製ちりとり)と箒を傍らに用意しておいてはいかがだろう。和紙に柿渋を塗ったもので、大きさも二〇cmほど。
 色合いも程好く、部屋の中にあっても自然と溶け込むし、大きさも小ぶりで、どこにあっても落ち着きがある。
 こういう日常の道具は無造作に部屋にあってこそ、映えるものであるべきだ。
 小さい箒とセットで、机や棚の上などの狭い場所で活躍してくれるだろう
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2008/8/19


壺屋焼 Tsuboya-yaki 

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 壺屋焼(つぼややき)は沖縄県那覇市壺屋地区、恩納村、読谷村で焼かれる陶器で、上焼(じょうやち)と荒焼(あらやち)に大別される。
 上焼は、釉薬(ゆうやく)をかけ約一二〇〇度の高温で焼いたもので、沖縄独特の絵付けを施した碗、皿、鉢、酒器のカラカラ、花瓶などの日用品が多く、壺屋焼の主流を占めている。
 荒焼は南蛮焼ともいわれ、釉薬をかけずに約一〇〇〇度で焼いたもので、酒甕、水甕類など大型の容器が多い。魔除けで知られるシーサーもこの一種。
 その歴史は古く、一四世紀から一六世紀にかけて南蛮焼の技術が伝えられたといわれる。一七世紀初頭、琉球王府は朝鮮人の陶工を招き、朝鮮式陶法の習得に力を入れ始めた。この時から上焼が焼かれるようになり、現在の壺屋焼が誕生した。
 壺屋焼の特徴は、その素朴さと力強さにある。風格漂い重量感あふれる器は、沖縄の良質の土と伝統技法から生まれる。昭和五一(1976)年、通商産業大臣により伝統的工芸品に指定された。
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2008/7/2


天平筆(雀頭筆) Tenpyouhitsu(Jantoupitsu) 

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 「天平筆(てんぴょうひつ)・雀頭筆(じゃくとうひつ)」は、芯となる毛に和紙を巻き、其の周りに毛を植えて穂を作るという製法の筆で、歴史は古い。
 日本に現存する最古の筆も、現在、正倉院に収蔵され、聖武天皇ゆかりの御物として伝え残る「天平筆(雀頭筆)」である。その「天平筆(雀頭筆)」は、17点の筆からなり、大きさ、長さ、筆管の装飾、筆帽の装飾、竹の種類、筆の穂などが、それぞれで異なっている。また、使われてる原毛も、狸毛、兎毛、鹿毛、羊毛、馬毛と、さまざまな種類の原毛が使用されており、象牙や黄金、銀糸などの高価な装飾が施されている点から、日用品としてではなく、観賞用、装飾品などに使われていたと考えられている。
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2008/6/10


母里焼 Mori-yaki 

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 母里焼(もりやき)は、島根県安来市伯太町東母里で伝えらる工芸品である。また、県の伝統工芸品に指定されている。
 幕末の弘化元(1844)年に、松江藩の分藩・母里藩の産業・文化事業として始められた。
 嘉永三(1850)年、豊岡に窯が移され豊岡焼といわれた。この豊岡焼から分れて明治二二(1889)年、稲垣茂平(いながきもへい)、利市父子(りいちふし)が登り窯を築いたのが現在の母里焼の始まりとされる。
 特徴は色の豊富さで代々伝わる色は、合計すると約30種類もの釉薬を使用する。
 粘土から松割木まで、全工程を全て手作業で行うため、窯出しは年に1回のみであり、非常に貴重なものとなっている。
 母里焼は今なお、捏鉢(つくねはち)や漬物鉢・食器類などの日用品を焼成している民芸陶器である。
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2008/4/11


凧祭り・てぬぐいたおる 乱舞 Takomatsuri-Tenuguitaoru Ranbu 

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 完成度の高いオリジナル作品を生み続けるペインター・広瀬理恵子によってデザインされた凧祭り・てぬぐいたおる「乱舞」。
 今からおよそ430余年前の永禄年間に、当時の浜松を治めていた引間城主の長男誕生を祝い、城中高く凧を揚げた事が始まりとされる浜松まつり。
 今では浜松まつりに欠かせない初凧・凧合戦が本格化したのは明治になってからで、凧祭りとして名高い。
 てぬぐいたおる「乱舞」は、遠州浜松大凧揚げの風景をデザインしたもので、千歳町の「てんぐ」、肴町の「鶴」など市内37町の凧印や旗が描かれている。
 伝統の祭りを評判のタオル地で日本手拭いに仕立てたこの一品は、凧合戦の熱気が伝わってくる楽しい日用品である。
 
丈は110cm×35cm
カラーは国内最多色10色を使用
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2008/3/11


天草 丸尾焼 Amakusa Maruo-yaki 

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 熊本県天草地方で焼かれる陶磁器類をまとめて、天草陶磁器(あまくさとうじき)と呼ぶ。平成一五(2003)年に国の伝統的工芸品に指定された際、新たに名付けられた呼び名で、丸尾焼(まるおやき)はこれらを代表する陶器の一つ。生活に根付いた焼物が多く、土もの以外に天草陶石で作った白陶の器なども人気がある。
 家伝によれば、弘化二(1865)年に金澤與市が創業したという。しばらくは瓶類や土管類を製造していたが、昭和四二(1967)年にこれらの製造を中止。日曜雑器を中心とした小物類の生産への転換を図り、窯名も粘土の採土地である丸尾ヶ丘の地名をとって「丸尾焼」と改称した。代々の地道な研究が実を結び、現在は年間の来窯者数が四万人を超える、九州を代表する窯元にまで成長した。
 普段着感覚の焼物にこだわり、生活空間をより豊かにする日用品としての陶器の可能性を求め、その技法はさらに進化し続けている。
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2007/11/22


櫛 Kushi 

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 櫛(くし)とは、頭髪をすいたり髪飾りとして挿したりする道具である。
 日本では6000年前の縄文時代、福井県の鳥浜貝塚から赤い漆塗りの櫛が出土している。遺跡からの出土は東日本に偏っており、当時は日用品ではなく、呪術的な意味があったと推測されている。
 平安時代から戦国時代までは女性の髪型が垂髪であり、また、髪を洗う事が少なかったので、髪の汚れを取り除く事を目的として、実用的に使用されていた。
 江戸時代になると女性の髪が結われるようになり、髪を整える目的で櫛がよく使われる従い、装飾が綺麗な物が増えた。
 その結果、髪飾りとしても普及し、貝やべっ甲でできた物や、鮮やかな彫刻・絵画を施した櫛が作られ、利用されるようになった。
 現代では、べっ甲・ツゲ・竹・象牙・合成樹脂等で作られている。
 櫛は、とりわけ女性にとっては、古くから日常欠くことのできない化粧用具のひとつである。
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2007/10/31


燕鎚起銅器 Tsubametsuikidouki 

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 燕鎚起銅器(つばめついきどうき)は、新潟県燕市の伝承技術として知られ、金・銀・銅・錫などの素材を鎚(つち)で打ち起こす金属工芸品である。
 江戸時代中期、地元の弥彦山から銅が産出されていた。そこへ仙台から職人がやってきて製造技術を伝えたといわれ、やかん類が生産されていた。これが現在の燕市が鎚起銅器を中心とした、スプーンやフォークなどの食器類、日用品が特産となったはじまりである。
 鎚起銅器は、一枚の銅板から大小さまざまな鎚や鏨(たがね)を用いて形成し、銅器を熱したあとゆっくり冷やす焼鈍(しょうどん)という方法を繰り返し、打ち延ばし・打ち縮めという鍛金の技術を駆使して作品を仕上げていく。
 さらに、表面には彫金で装飾を施し、打出・片方を斜めに彫って線を描く片切彫(かたきりぼり)・彫り上げたくぼみに金・銀・貝など他の材料をはめ込む象嵌(ぞうがん)などの技術が用いられる。
 燕鎚起銅器は、殺菌作用があり熱伝導率が高く、丈夫であるため長年愛用できる逸品である。
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