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2007/6/4


旧下ヨイチ運上家 Kyuu-shimo-yoichi-unjouya Old Shimoyoichi Unjoya

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 旧下ヨイチ運上家(きゅうしもよいちうんじょうや)は、北海道余市郡余市町入舟町にある建築物である。国指定の史跡重要文化財となっている。
 江戸時代、松前藩が設けたアイヌの人々との交易の場所の中心に、交易を請負った商人が建築、経営を行った建物が運上家である。
 和人が増えるにつれてアイヌを使役し、自らも大規模漁業を営み、その基地化の傾向は強まっていった。漁期には支配人、通辞、帳役、番人などを置き、休漁期には番人のみが越冬をした。
 明治二(1869)年、開拓使が発足し、場所請負制度は廃止された。運上家は買い上げられ、本陣、会所、旅籠、番屋などへと姿を変えた。
 旧下ヨイチ運上家は、道内で唯一残った建築を解体、嘉永六(1853)年に改築した当時の古図面を基に復元した、貴重な建物である。
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2007/5/24


上ノ国の中世の館 Kaminokunino-chuseino-tate Kaminokuni Fort-Mansion

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 北海道道南の日本海に面する上ノ国町には、「館(たて)」と呼ばれる中世の山城の跡が残る。
 上ノ町に所在する「花沢館」「州崎館」「勝山館」の三館が、北海道遺産に指定された「上ノ国の中世の館」である。このうち最も規模の大きい勝山館跡は、昭和五四年から発掘調査が行われており、謎の多い北海道中世史の空白を埋める貴重な遺構だ。
 勝山館は、松山藩の祖・武田信広が長禄三年(1457)年、アイヌ民族との戦いに勝利した後、居城として築城。発掘調査では、空壕、屋敷跡、食器などともに200人以上の和人とアイヌ民族が一緒に暮らしていた記録も出土され、和人とアイヌ民族の共生の証として注目を集めている。また、出土した陶磁器の45%が中国製だったことから、中国との交易を盛んに行っていたことが窺える。
 上ノ国の中世の館は、歴史のミッシングリンクを埋めるロマン溢れる遺跡である。
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2007/5/11


青谷上寺地遺跡 Aoya-kamijichi-iseki The Aoyakamijichi Ruins

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青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡は、弥生時代から大和時代にかけての遺跡。鳥取県鳥取市青谷町に所在する。
 平成三年に青谷羽合道路建設のための調査中に偶然弥生時代の土器が出土したことから発掘が開始された。その後、試掘調査により大規模な遺跡であることが判明し、平成十年から本格的な発掘調査を開始。日本初を含む多くのものが出土、弥生時代を知る貴重な遺跡として注目を集めている。
 出土品は数万点にものぼり、日本初の出土となる「弥生人の脳」や、高い技術を示す木製容器、海外からもたらされた鉄器、戦闘で傷ついたと推測される殺傷の痕の残る人骨が発掘された。このことから、弥生時代に日本人は既に大陸との交易を結んでいたことや国内の戦乱が存在したことなどが窺える。この新たな発見は、太古の歴史を深く知るとともに、新たな可能性を感じさせる。
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2007/1/26


勝山館 Katsuyama-no-tate Katsuyama-no-tate Castle

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 後の松前氏の祖である武田信広が、15世紀後半に築いた山城で、面積約35万平方メートル。
 16世紀末頃まで武田・蠣崎氏の日本海側での政治・軍事・北方貿易の一大拠点であった。
 現在も継続中の発掘調査により、約3万点の美濃焼皿・中国製青磁などの国内外産陶磁器や金属製品、木製品など数万点の出土品、建物・井戸・空壕・橋などの跡が多数見つかり、館内での様々な暮らしぶりがうかがえる。
 また当時アイヌの人々も使っていた500点余の骨角器が出土している。
 日本海北方交易や中世の生活様式を知ることが出来、「北の中世」を語ってくれる重要な史跡として、近年大変な注目を浴びている。
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尻八館 Shirihachi-date Shirihachi-date Fort

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 小高い山の山頂部に築造された中世の山城。標高180mの山頂に位置し、堀・腰郭・土橋などが見られる。
 発掘調査により13世紀後半から15世紀後半に作られた中国製陶磁器が数多く見つかり、特に「青磁浮牡丹文香炉」は、青森県内でみつかった陶磁器の中で最も優れたものと言われている。
 昭和53〜54年にかけて行われた発掘調査で、堀跡の解明や生活用具など総数1800点にのぼる遺物が発見され、その質の高さは、津軽の中世史に新たな局面を開くこととなった。
 現在、県立郷土館に展示してある遺物を見ると、中世における東アジア交易の逸品が並んでおり、「辺境」のイメージとは程遠い遺跡の姿を見せてくれている。
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2007/1/25


志賀島 Sika-no-sima The Island of Shika-no-Shima

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 志賀島は、福岡県福岡市東区にある島で、博多湾の北部に位置し、砂州により本土と陸続きになった陸繋島である。
 志賀島は、周囲約11km、全戸数約790戸、人口約3000人余り。このような形態の島は、全国的にも珍しい。
 天明四(1784)年、2人の農民がこの島の田んぼで偶然「漢倭奴国王」の金印を発見した。
 中国の後漢書に、57年、光武帝が奴国の使者に金印を渡したと書いてあり、これがその金印だと言われている。歴史的にも貴重な品で、国宝である。
 この金印は日本の歴史の始まりを示す品であり、今は福岡市博物館に展示されている。金印がなぜこの志賀島に埋没していたかは今でもよく解っていない。
 志賀島は、古代日本の大陸・半島への海上交易の出発点であり、古から続く歴史的舞台である。
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2007/1/24


朴峠 Hou-touge Ho Toge Pass

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 「朴峠(ほうとうげ)」はかつて城端と五箇山間の重要ルートであった。人の往来だけでなく、生活物資などを運ぶための交易路として住民の産業と生活の重要路線だったのだ。
 五箇山から城端へ通じる峠道は北から杉尾峠、朴峠、唐木峠、小瀬峠、ブナオ峠があったが、中でも朴峠はどの峠越え道と比べてみても、いちばん利用度の高い道だったという。このため、加賀藩では峠に小屋を建てて番人を住まわせ、藩の御用のため往来する者の休み場とし、冬は雪道往来の避難所とした。明治20年に細尾峠新道のできた後も城端までの近道としておおいに利用され、冬場は唯一の交通路であったという。 
 現在は自然歩道として安全に整備され、多くの解説板や交通の守り神として祀られた地蔵様などの旧跡があり、トレッキングルートとして多くの人々が訪れる。
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2007/1/12


首里織 Syuriori Shuri-Ori Textiles

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 首里織は、紋織から絣に至るまで多彩に織られる、沖縄の高級織物である。
 首里織は、南方から伝えられたといわれる絣技術と、中国から伝えられた紋織りの技術を取り入れ、首里の上流階級や士族の女性たちによって首里の織物として織られた織物である。
 琉球王府の置かれた首里は政治文化の中心にふさわしく、色、柄ともに格調高く洗練された多種類の染織が発達していった。
 それは海外交易に深く関係しており、国外から織物の技術や材料を取り入れ、首里花織、ロートン織、花倉織、首里絣など幾種もの独特の織物が織られてきた。
 首里織は、琉球藍、クロトン、福木などを使い草木染され、首里の士族階級に着用された、多色染めの気品高い織物である。
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