NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/1/15


朱色(シュイロ) Syuiro 

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 日本の伝統色のひとつである朱色は、中国では古来より高貴の色とされ、建物や仏壇、食器など様々な物に多用されてきた。
 日本にとって文化の先進国であった中国の影響を受け、国内の神社仏閣などには美しく鮮やかな朱色に塗られた建物が多く見られるが、魔除けや、建物の防虫・防腐の目的も含まれていたという説がある。
 朱はやや黄を帯びた鮮やかな赤色の顔料で、辰砂(しんしゃ)という天然の硫化水銀からつくられ、日本では「丹(に)」とも呼ばれる。後に硫黄と水銀から人工顔料バーミリオンという銀朱が作られるようになったが、天然の朱は、銀朱よりさらに赤みの強い深い色合いを持っている。
 朱は経年による退色や変色が少ないため、印肉などにも用いられている。その色と原料の希少性から、日本でも高価な貴重品として扱われてきた。
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2008/1/8


法華経寺 五重塔 Hokekyou-ji Gojuu-no-tou 

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 法華経寺(ほけきょうじ)は千葉県市川市中山に所在する寺である。元は日蓮宗四大本山であり、戦後は中山妙宗の本山となっている。
 五重塔はこの法華経寺にあり、桃山時代から江戸時代初期にかけて書家・芸術共に優れた家柄であった、本阿弥家の本阿弥光室(ほんあみこうしつ)が両親の菩提を弔うために、加賀藩主・前田利光の援助を受けて建立したものである。現在は国の重要文化財に指定されている。
 塔は落ち着いた和様形式で造られており、高欄のない縁をめぐらし、各層の大きさは方三間、初層から四層まで軒は二重繁垂木が用いられている。30メートルにも及ぶ高さを誇り、外部全体は雅な朱塗で仕上げられている。
 関東地方には江戸時代以前の五重塔は非常に少なく、法華経寺のほかには三基残るだけである。
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2007/12/14


花尾神社 Hanao-jinja 

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 花尾神社(はなおじんじゃ)は鹿児島市花尾町にある島津藩所縁の神社。国道を少し離れた田園風景の中に朱塗りの赤い鳥居が立ち、杉の林へ参道が伸びている。
 島津氏初代・島津忠久は源頼朝と丹後局の間に生まれた子という伝説がある。この神社は忠久が薩摩・大隅・日向の三州の守護職に任ぜられた際に御堂を建て、頼朝尊像を安置、創建した。
 現在残る社殿は正徳三(1713)年建立のもの。幣殿や向拝に、鶴と松、牡丹と唐獅子、様々な花や長い牙をもつ象など、明るい色彩の細かな彫刻と装飾がある。さつま日光とも称されており、いつまでも見ていたくなる様な風情だ。
 天井絵は401枚の彩色による精密な草花の写生絵が見られる。嘉永六(1853)年狩野派の絵師・能勢一清が描いたとされているが、現存している絵がそうであるかは定かではない。
 社殿の横には丹後局の墓、御苔石があり、安産・子授のお守りに石の苔を持ちかえる人が多い。
 昭和五五(1980)年に県の有形文化財となっている。
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2007/11/15


金泉寺 Konsen-ji 

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 四国霊場第3番札所である金泉寺(こんせんじ)は、聖武天皇の勅願により行基菩薩が開基したお寺で、当時は金光明寺と呼ばれていた。のちに弘法大師が訪れ、霊水が湧き出ているのを見て金泉寺と改めたとされる。
 今でも水が湧き出ており、この井戸を覗きこみ、影がはっきり映れば長寿、ぼやけていると短命という言い伝えが残されている。
 境内からは、天平・藤原時代の古瓦が多く発掘されているため、奈良時代の創建であることが推測される。その後長曽我部元親軍の兵火で伽藍を焼失したが、その後再興、現在の規模となった。
 朱塗りの仁王門をぐくると、左手に鐘楼、右手に八角形をした色鮮やかな朱塗りの観音堂がそびえ、 本堂の左側にある護摩堂の格天井には美しい花鳥が描かれており見所のひとつでもある。
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2007/10/12


野上八幡宮 Nokami-hachiman-guu Nokami Hachimangu Shrine

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 野上(のかみ)八幡宮は、和歌山県海草郡起美野町に所在する古社。創建は、欽明天皇の時代、550年代まで遡るとされる。
 日本三大八幡宮のひとつ、京都の石清水八幡宮の別宮として、何百年もの間、多くの人々が信仰を寄せてきた由緒ある神社だ。
 桃山時代に建築された本殿をはじめとして拝殿、摂社武内神社本殿、刀剣など国の重要文化財を多数保有していることでも有名。見事な朱塗りの社殿は昔日の名残を今もとどめている。
 毎年10月中旬の日曜日には秋祭りの獅子舞が盛大に執り行われ、近隣の人々でにぎわう。
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2007/9/18


枚聞神社 Hirakiki-jinja 

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 枚聞神社(ひらききじんじゃ)は、鹿児島県指宿市開聞十町にある神社である。祭神は、大日孁貴命(おおひるめむちのみこと)他八柱。
 創建は定かでないが、社伝では和銅元(708)年とも伝えられている。
 朱塗りの社殿は慶長一五(1601)年、島津義弘が再興し、天明七(1787)年に島津重豪(しまづしげひで)が改修したもので、後ろにそびえる開聞岳の緑に社殿の朱が良く映える、美しい景観を誇る。
 薩摩国の一宮であるが、新田神社も「薩摩国一宮」を名乗っており、鎌倉時代から互いに一宮を巡り争ってきた。
 外洋に面した立地から、古くから「航海神」としても崇められ、江戸時代以降は琉球からの使節の崇敬も集めるようになった。
 枚聞神社は、神代より続く長い歴史をもつ古社である。
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2007/9/10


霧島神宮 Kirishima-jinguu 

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 霧島神宮は、鹿児島県霧島市霧島田口にある神社である。祭神は天饒石国饒石天津日高彦火瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)。国指定の重要文化財とされる。
 欽明天皇の御宇(540年)、高千穂峰と火常峰の間に社殿が造られたのが始まりとされる。
 火山の麓にあるため度々炎上し、天暦年間(938~956年)には高千穂河原に遷されるが、ここでも噴火の巻添えで炎上する。
 文明一六(1484)年、現在地に兼慶が神社を再建した。
 正徳五(1715)年、現在の社殿が完成する。
 修験僧による霧島山を中心とした、霧島六所権現信仰の中心的役割を果たしている。
 社殿はいずれも朱塗りの華麗なものであり、特に本殿は内部も豪華に装飾され、贅をこらしていて、西の日光とも言われる。
 霧島神宮は、神代からの長い伝統を誇る古社である。
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2007/9/7


賀茂神社 Kamo-jinja Kamo Shrine in Sendai

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 仙台市泉区にある賀茂神社(かもじんじゃ)は、京都の本社と同じく下賀茂神社と上加茂神社の二社から形成されている。大鳥居から中の鳥居、玉垣内の二社の社殿すべてが朱塗りで、赤神様として親しまれている。
 社殿は七北田川が北に流れる台地に位置する。元禄八(1695)年、伊達藩四代藩主・伊達綱村が塩竃神社造営のとき、境内社だった糺の宮(ただすのみや)を現在地に移し、併せて上賀茂神社も建てられた。
 玉垣内には向かって右(東の宮)に下賀茂神社が、左(西の宮)には上賀茂神社が並び、南に面して建っている。神社に伝わる棟札によると、正式名は右が御祖神社(みおやじんじゃ)、左が別雷神社(わけいかづちじんじゃ)となる。また社殿の向拝(こうはい)にある蟇股(かえるまた)の彫刻は、下賀茂神社が雌鳥、上賀茂神社が雄鶏となっている。
 賀茂神社では初詣や、正月飾りを持ち寄り境内で焼き無病息災を祈る「どんと祭」の際、大きな賑わいをみせる。
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