NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/6/12


蚕の社 Kaiko-no-yashiro Kaiko no Mori

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 京都府は太秦にある蚕の杜(かいこのもり)は、正式名称を木島坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)といい、木の嶋神社(このしまじんじゃ)と呼ばれ、親しまれている。
 いわれは古く、推古一二(604)年の創建とされている。渡来人の秦氏(はたし)が養蚕と織物の神を祀ったのがはじまりといわれており、摂社である養蚕神社(こがいじんじゃ)が名前の由来とされている。幾たびの戦火に伴い社殿は焼失、現在の社殿は明治以降に再建されたものだという。
 社殿の西側に元糺の池(もとただすのいけ)という湧水池がある。その池の中央に、三柱鳥居(みはしらとりい)と呼ばれる、京都三鳥居の一つとされる珍しい鳥居がある。柱が三本あり、上から見ると三角形をなし、中央には組石で神座(かみぐら)が作られている。起源は不明だが、現存のものは天保二(1831)年に再建されたものだといわれている。
 蚕の杜は、現在でも製糸機織業者の信仰が篤く、町の氏神様としても親しまれている。
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2008/2/27


床柱 Tokobashira 

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 床柱(とこばしら)は、床の間と床脇を隔てる境に立てられる一番太い柱で、床の間を構成する上で非常に重要なものである。
 その床柱には特別な趣を持つ、装飾的で高価な木材である「銘木」(めいぼく)を用いることが重要とされ、「紫檀」や「檜」、「桑」、「黒檀」等、味わいのある木を素材として面を取り、角柱に加工したものが一般的である。
 また、床の間の造作に合わせて床柱も変えられ、本来の床の間の形から若干崩した「草」の床の間では、その趣に合わせて、皮が付いたままの天然木が用いられることもある。
 床の間自体は室町時代に生まれたとされ、室町以前はそれぞれ別の部屋に設けられていた床の間の主要部分の「床」と「書院」、「違い棚」を一体化したのがその始まりであるといわれており、床柱もその際、床の間を際立たせるためのまさに”顔”として用いられるようになったとされている。
 一本通った銘木の床柱は、それだけで床の間を趣きある空間に変えてくれる。
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2008/2/7


御簾 Misu 

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 御簾(みす)とは部屋と部屋の間の柱と柱を水平につなぐ長押(なげし)に掛けて、仕切りや目隠しをする用具のことである。
 古代から用いられ、はじめは神域や神聖な場所との境のために使用されていたが、その後、貴族や身分の高い人の住居の仕切りや装飾用として広まっていった。
 御簾は真竹や女竹を細長く削り、色染めした後、赤糸でまとめ、帽額(もこう)と呼ばれる果紋(かのもん)を織り込んだ美しい布で縁を囲んだものである。巻き上げて束ねて留めておくことができるように、裏に鉤(こ)と呼ばれる鉤爪が付けられている。鉤は総角(あげまき)結びの飾り紐で固定するようになっている。
 竹の編む時は絹糸を使い、葵を形取って竹を編み上げる葵あみ、六角模様を形取って編み上げる亀甲あみや、二本一組のラインで竹を編み上げる八重あみなどがある。
 『源氏物語』では、登場人物の心の機微を表現するアイテムとしてよく登場する。
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2007/9/13


旧岩田家住宅 Kyuu-iwata-ke-juutaku 

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 旧岩田家住宅(きゅういわたけじゅうたく)は、仲町伝統的建造物群保存地区にある建物の1つで、寛政時代から文化年間に建てられたものと予測されている。
 建てられて間もなく、家を移動した後、増改築等が行われていると推測されているが、これらはあまり大掛かりでなく、柱や小屋組などの主な構造や、藁葺屋根等は当時のまま残っている。
 当時の武士の生活を知る上で重要な建築のひとつとされており、広間、座敷、奥座敷、居間などで現在も当時の雰囲気を見ることができる。
 旧武家屋敷街の保存に積極的であった故・岩田夏城氏の遺志として昭和五六年八月に弘前市に寄付されたものである。
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2007/7/31


ヤッサ祭り Yassa-matsuri Yassa Festival

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 ヤッサ祭りは、毎年9月29日に群馬県の(旧)月夜野町(つきよのまち)の若宮八幡宮(わかみやはちまんぐう)で行われる例祭である。
 裸で数珠つなぎになった男衆が、下帯姿で社殿の柱によじのぼり、「ヤッサ、モッサ、シンジュウロウ」と声を掛け合いうねり歩くことから「ヤッサ祭り」の名が付いたと言われる。
 祭りの起源は定かではないが、かつてこの地が水害に遭った際、若者たちが数珠つなぎになって人々を救ったという説や、400年前に名胡桃城(なぐるみじょう)の合戦の折に、大木新重郎という武士が村人を救おうと腰ひもを掴ませて誘導した、という説などがある。
 祭りでは男衆が歩きながら押し合いへし合いし、寝そべるなどを数回繰り返した後に社殿の大鈴をもぎ取る。見事にもぎ取れたら、その年は豊作になると言われている。
 ヤッサ祭りは400年の伝統を持つ、素朴で勇壮な祭りである。
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2007/7/12


熊野神社・長床 Kumano-jinjya nagatoko 

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 源頼義・義家親子が天書三(1055)年前九年の役で陸奥征討に赴く際、武運を祈って紀州熊野から、熊野堂村(現河沼郡河東町)に勧請創建したのが始まり。
 その後、後三年の役(1083〜1087年)で再びこの地を訪れた源義家は、新宮の地に移すように命じ、造営は応徳二(1085)年に始まり、寛治三(1089)年に完成遷座し現在に至る。
 新宮熊野神社には、多くの国・県・市指定の文化財があるが、中でも長床は、昭和38年に国の重要文化財に指定され昭和46年から足掛け4年の歳月をかけ、膨大な経費を費やして解体修理復元がなされた。
 長床は、長大な規模と太い柱の配列が特徴。四方が吹き抜けのため、内部に林立する太い柱が見通され、いかにも古風でまさしく、平安期の荘厳な趣を今に伝えている。
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2007/6/13


宮崎 巨田神社 Miyazaki kota-jinja Kota Shrine

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 宮崎県宮崎市佐土原町にある神社。その歴史は831年の鎮座といわれ、応神天皇と住吉四社の神を祀っている。
 古くは巨田八幡と称し。江戸時代、佐土原藩主の島津氏から藩内7社の一つとして敬愛を受け、藩主の参拝なども行われた。境内には、島津惟久が奉納した石灯籠を見ることができる。
 本殿は朱色の柱が目を引く三間社流造り、宮崎県では唯一室町時代の建築様式を残す建物。国の重要文化財に指定されている。
 毎年11月に行われる巨田神楽は、約400年の伝統があるといわれる。この祭りでは、全33番の中から、20番の舞が見られる。神楽面で舞う姿、大太鼓、横笛の音色などが周囲の自然の景色に溶け込むような感覚を楽しむことができる。
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2007/5/11


BEPPU dining table Beppu Dainingu Teburu 

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 ダイニングテーブルという洋風な家具であるのにどこか懐かしさを感じさせる佇まい。
 材料に宮崎県産の無垢の杉(角材75mm)を使い、天板と脚のつなぎは、和風建築において柱と梁(はり)をつなぎ合わせる仕口(しくち)が施されている。
 寸分の狂いもない直角の面と柱の関係がどこまでもモダン。かつて家の柱がそうであったように日々の暮らしの中で一緒に時を刻むテーブルである。
 
■BEPPU
 Dining table
・杉材無垢 オイル仕上
・W×D×H
 1800×825×700mm
・デザイン・小泉誠
■プロデュース
 ubushina 立川裕大
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