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2008/9/12


鉦鼓 Shouko 

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 鉦鼓(しょうこ)は、中央にある青銅製の皿型を撥(ばち)で打って鳴らす楽器で、日本古来の伝統音楽である雅楽で使用されるものである。
 歴史の長い雅楽の中にあって、唯一の金属製楽器であり、管弦演奏には楽鉦鼓(がくしょうこ)や釣り鉦鼓が用いられ、舞楽には大鉦鼓、道楽に担い鉦鼓など様々な種類が用いられている。
 撥の先端は棗(なつめ)の形で、水牛の角などの固い素材で作られており、打ち鳴らすと澄んだ甲高い音を出す。
 合奏においては大きく表には出ないが、雅楽特有のある種単調な旋律の流れの中にリズムパターンを刻んでアクセントを加えると共に曲目の速度である拍子を調整する役目を持つ。
 そうした拍子を撥の片方だけで打つチンという奏法と、両方を続けて打つチチンの二つを使い分けながらたくみにリードしていく。
 悠久の歴史を持つ雅楽の中にあって、縁の下の力持ちのような存在の楽器である。
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2008/8/28


備中国分寺 五重塔 Bicchuu-kokubun-ji Gojuu-no-tou 

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 備中国分寺(びっちゅうこくぶんじ)は、岡山県総社市上林にある真言宗御室派の寺である。本尊は、薬師如来。奈良時代に聖武天皇の発願によって鎮護国家を目的に建てた官寺である国分寺の一つで、天平一三(741)年の開基とされる。
 五重塔は、文政四(1821)年から弘化元(1844)年ごろまで20年以上かけて完成し、34.32mの高さを誇る。
 屋根の上層と下層がほぼ同じ大きさの細長い造りで、相輪も短く、江戸時代後期の様式を色濃く残す造りとなっている。木造、方3間、本瓦葺、鋳青銅製で、3層まではけやき材、4、5層は松材が主体となっている。初重の各面には十二支の彫刻が、内陣の仏壇上には釈迦、阿弥陀など4如来が安置されている。
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神鏡 Shinkyou 

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 まだ、科学の発達していなかった古代の人々にとって、自らの姿を映し出す鏡は神秘的なものであり、また、神の不思議な力が宿る畏敬の存在であった。
 日本でも弥生時代や古墳時代の有力者の墓から多くの青銅の鏡が出土している。また、邪馬台国の卑弥呼の時代には朝鮮半島を経て多くの銅鏡である方格規矩四神鏡(ほうかくきくししんきょう)が日本に入ってきた。
 その後、鏡は、呪術や祭りでの神の権威の象徴として取り扱われるようになり、天皇の時代には神鏡は権威の象徴の一つとなっていった。
 天皇家に伝わる三種の神器の中の一つに八咫鏡(やたのかがみ)がある、この鏡は天照大神(あまてらすおおみのかみ)が天上より御くだりになった時、天照大神自身だと思って祀るようにと伝えられている鏡である。
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2008/8/22


樺崎砲台跡 Kabasaki-houdai-ato The Remains of Kabasaki Battery Fortress

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 樺崎(かばさき)砲台跡は安政ニ(1855)年、宇和島湾の守りとして、山を切り海を埋め立てて建てられた砲台跡で、当時宇和島に来ていた医師であり幕末から陸軍指導者として活躍した大村益次郎、通称村田蔵六の設計・考案とされている。
 海外に門戸を開いた「安政の開国」によって、瀬戸内海にも諸外国の船が頻繁に入港するようになると共に、県内の各藩は海岸防備の必要性に迫られた。なかでも宇和島藩は、藩主伊達宗城を中心に富国強兵策を推進し、軍備の近代化に力を注いだという。そんな中この洋式砲台が造られた。
 総面積一五三坪、器械蔵二二坪。海を埋め立て台場を築く工事はかなり難航したという。敷地には砲眼・火薬庫などの施設と青銅製大砲五門が設置された。
 砲台跡は昭和六〇年代までは海だったという宇和島港に立つ、宇和島市立歴史資料館の隣に保存されている。同資料館の建物も元警察署で明治建築の味わいのある建物である。
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2008/8/4


【徳(德)】 Toku, Tadasu Virtue

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 「徳」の字が表す元の意味は、後世の「徳」の倫理概念ではなく、原始的なアニミズムと呪術の世界へ戻らなければなりません。
 「行」という字は縦横の交差点を象っていますが、「徳」の部首となっている「彳」は、「行」の左半分、つまり分岐を意味します。人が多く通る場所であり霊的に大事なところです。自然にほかのところより事故が多発するので、悪霊をはらう対象にもなります。
 旁(つくり)の横向きの「目」の上部は「蔑」や「省」と同じように呪飾を表しています。「省」はある地域・国に対しての武威をあらわすものですが、「徳」の右上の部分と同じ由来をもち、呪力のある目で見回ることを表しています。特に「徳」の字は、「彳」の要素を持つことから、呪飾の目の威力で行われる巡察の対象が、交差点や分岐にある悪霊であり、それを祓いただすことを示します。
 一般的に旧字体のほうが古代の字体に近いのですが、この「徳」は、旧字体よりも一画少ない常用漢字の字体は金文に近い形です。
 さらに初めて「心」の形が加わったのは、殷から周への革命の直後、西周前期の青銅製の器である「大盂鼎」(盂はこの鼎を使った殷の人の名前)に刻まれた290字の長い銘文で、その時から「徳」の意味するところが、目の呪力より精神的・内面的な方向へ変わりました。
 
■右 徳・甲骨文(こうこつぶん)
■左 徳・金文(きんぶん)
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2008/7/30


緑青色(ロクショウイロ) Rokushou-iro 

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 緑青色(ろくしょういろ)とは、色彩の種類の一つで、日本に昔から伝わる伝統色である。
 仏教伝来とともに中国から伝わった顔料で、孔雀石の粉末に水を加えて強く研ぎ、上層に浮き上がる細かい粒子を白緑、中層にたまる粒子を中緑、下層にたまるものを緑青と言う。
 岩絵具の顔料であり、昔から日本画の緑色として欠かせないものであった。
 また、古代から人工的に銅や青銅を酸化させて、表面にできる緑色の錆から採取する製法も存在する。成分はいずれも、炭酸銅と水銀化銅の混合物である。
 古来、絵画の緑色絵の具の代表的なもので、彫刻や建築などの塗装などにも広く用いられてきた。
 落ち着いた感じのする、日本に古来より伝わるくすんだ青緑である。
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2008/4/25


萬祥山焼 Banshouzan-yaki 

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 萬祥山焼(ばんしょうざんやき)は、島根県出雲市大津町に伝わる工芸品である。県の伝統工芸品に指定されている。
 元々、大津地区は地元産の良質な粘土を利用した瓦などの窯業が盛んであった。
 明治五(1872)年頃、日野源左衛門(ひのげんざえもん)が、地元の豊富な粘土を使用して焼いたのが始まりとされる。
 開窯当時は、来原焼(くりはらやき)と呼んでいたが、後に大津町長の森広操軒(もりひろそうけん)の命名で、萬祥山焼と呼ばれるようになった。
 当初は日用雑器が主だったが、明治二五(1892)年頃から茶の道具類が主となったという。他に、酒器や花器なども製作されている。
 その特徴は青銅、伊羅保釉(いらぼゆう)などが使われる事とされている。
 萬祥山焼は、明治以来の伝統を今に受け継ぐ民芸陶器である。
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2008/2/25


中島宏(人間国宝) NakajimaHiroshi 

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 なかしま・ひろし。昭和一六(1941)年、佐賀県武雄市生まれ。中国の陶磁器でも最も難しいとされる青磁(せいじ)一筋に作品を作り、伝統をそのままコピーするのではなく、独自の「中島青磁」を確立したことが高く評価され、平成一九(2007)年九月、重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定された。
 磁器を焼く窯元に育った氏は、泥だらけになる家業を好きになれなかった。転機になったのは、父親に連れられて始めた窯跡の調査だった。「青磁なら自分の存在感が出せる」と進む道を決めてからは、窯跡を歩き、文献をひもとき、手探りで研究を続けた。常に白紙からスタートするという姿勢で臨み、中国青銅器や印象派の絵から、技法のヒントを得ては試行錯誤を繰り返してきた。
 氏は「より良いものを作らなければ、世間も自分も納得しない。原点に立ち返り、青磁とは何か自問自答したい。見た人の琴線に触れ、使う人の情が移るような作品を手掛けたい」と語る。原点回帰と創造へのこだわりが、人を感動させる作品を生み出していく。
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