NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/10/17


北風原 羯鼓舞  Narai-hara Kakkomai 

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 北風原の羯鼓舞(かっこまい)は、千葉県鴨川市北風原(ならいはら)で伝承されている伝統芸能である。
 毎年七月の第四日曜日に、北風原地区の春日神社の例祭として、請雨山(しょううさん)の愛宕神社の獅子神楽と一年交代で奉納されており、どちらも愛宕神社境内で行なわれている。
 その起源は定かではないが、一説には室町時代の天文年間(1532~1554)、安房国主であった里見義実(さとみよしざね)の命により、雨乞いと豊作を祈念して始められたと伝えられている。
 雄獅子と雌獅子、中獅子からなる三匹の獅子が、腹につけた雅楽や能楽用の鼓である羯鼓を軽快な調子で打ちながら舞い踊られる、三匹獅子舞の形態をとっている。
 恵みの雨が降ることを天に託した、農民たちの切なる願いが込められたその舞いは、県の無形民俗文化財にも指定されており、今も保存会の人々により、脈々と受け継がれている。
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2008/7/24


山口 吉香神社 Yamaguchi Kikkou-jinja 

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 吉香神社(きっこうじんじゃ)は山口県岩国市に鎮座する神社である。
 この神社はもともと天文年間(1532~1554年)に岩国領主であった吉川元春(きっかわもとはる)が祖先の霊を祀るため建立したものである。現存する社殿は享保一三(1728)年造営され白山神社境内に鎮座していたが、明治一八(1855)年に現在の旧城跡に移設された。
 神社は一の鳥居から拝殿、本殿と南から北に一直線に並んで建てられている構成である。神門は小さな四脚門で吉川家家紋が刻されている。拝殿は檜皮葺、入母屋造りである。また、拝殿と本殿は複雑な架構と屋根形式が巧みにおりあい、岩国大工の技術の粋を見せる建築物として有名である。拝殿、本殿、神門は県指定の有形文化財となっている。
 境内の西側には、元は吉川家の代々の家臣の回向所であった建物が明治に入り褒忠社(ほうちゅうしゃ)として吉香神社の末社となっている。
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2008/7/3


甘利山 Amariyama 

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 甘利山(あまりやま)は、山梨県韮崎市の西南西にあり、南アルプス市との境に位置する標高1731mの山である。
 かつては深草山と呼ばれていたが、天文年間(1532~1555)、山中にある椹池(さわらいけ)に巣食う毒蛇を武田信玄の家臣で武将の一人でもあった甘利昌忠(あまりまさただ)が退治した功から、甘利山と呼ばれるようになったとされ、山梨百名山の一つにも数えられている。
 韮崎市内から山頂付近まで県道が続き、車で上まで登頂可能となっている。
 準平原地形の山頂付近には、おおよそ一五万株ともいわれるレンゲツツジやスズランの群落があり、六月中旬から下旬にかけてのシーズンには多くの人が訪れる。他にもミヤマザクラやシモツケソウ、アキノキリンソウなどほぼ一年を通して、様々な草花を楽しめる。
 高原状の山頂からは大菩薩嶺や奥秩父、八ヶ岳等の横たわる巨大な山塊やその上に聳える富士山の雄峰、足元に広がる甲府盆地の絶景を心行くまで堪能することができるだろう。
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2008/5/14


鳥越城 Torigoe-jou 

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 西側に大日川、東側に手取川が流れる、標高三一二mの見晴らしの良い鳥越山。その山頂にある鳥越城(とりこえじょう)は、天文年間(1532~1554)に鈴木出羽守(すずきでわのかみ)が加賀一向一揆の軍事拠点とするために築いたといわれる。
 ここを拠点に、白山山麓に幾つもの砦を築いて織田軍の侵攻に備えたが、天正八(1580)年落城した。その後も一門衆は激しく抵抗したが、二年後に完全降伏したという。
 枡形の本丸虎口には石垣が積まれ、趣のある高麗門と櫓門が再現されている。土塁に囲まれた本丸を中心に南北に曲輪が配置され、南側には二の丸、三の丸がある。本丸と二の丸は防備を固めるために掘られた、深い堀切があり歴史を物語る。
 国の史跡として各所の整備や復元がされており、見応えのある山城である。
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2008/5/12


足利学校 Ashikaga-gakkou 

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 足利学校(あしかががっこう)は、栃木県足利市にある国内唯一、日本最古の学校である。
 創設時期に諸説はあるが、平安時代(794~1185)初期、または鎌倉時代(1185~1333)とされており、室町時代(1336~1573)から戦国時代(1467~1573)にかけて、関東における最高学府であったとされる。
 天文年間(1532~1555)には、約3000名ほどの学徒をかかえ、フランシスコ・ザビエルにより「日本国の中で最も大きく、最も有名な板東の大学」として世界に紹介されたという。
 江戸時代(1603~1867)末期にその役割を終了し、明治五(1872)年をもって廃校になった。
 約5500坪もの敷地に、入徳門・学校門・杏壇門の三門と孔子廟・方丈などの建物が佇んでいるといわれる。 
 昭和五七(1982)年になって、足利市が「史跡足利学校跡保存整備事業」に着手し復元され、平成二(1990)年に、江戸中期の姿に甦ったという。
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2008/2/25


銀線細工 Ginsen-zaiku 

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 銀線細工(ぎんせんざいく)は、秋田市内のみで生産される伝統的な金属工芸品で、市の無形文化財および県の伝統的工芸品に指定されている。
 天文年間(1532~1554)、一大貿易港だった長崎の平戸に、オランダ人が銀線細工を伝えたことに始まる。平戸藩と秋田藩の江戸屋敷が隣同士であったため、初代秋田藩主がそれを知り、慶長七(1602)年に常陸国から秋田に移封された際、この技術を持つ金銀細工師を伴ったことにより伝わったとされる。
 当時は武具の飾りやかんざしが、また明治・大正時代には髪飾りが盛んに作られていたが、今日ではブローチ、イヤリング、ペンダント、カフスやタイ留めといった、洋装用のアクセサリーが中心になっている。
 秋田銀線細工の特徴は、〇・二ミリ程の極細の銀線を寄り合わせ、花や蝶などを題材に、手先と簡単な道具だけで様々な形を作り上げていく技法にある。一〇ほどの工程を通して、一点ずつ丹念に仕上げて行く。材料には、白さを出すために純銀が用いられる。
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2007/12/11


青梅 海禅寺 Oume Kaizen-ji 

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 青梅市二俣尾にある海禅寺(かいぜんじ)は、辛垣山(からかいやま)の南麓にある。本尊は釈迦如来で、本山を永平寺と総持寺とする曹洞宗の寺で知られる。
 寛正年間(1460~1465)この地に草庵ができたのが始まりである。当時、奥多摩を支配していた三田氏の菩提寺として、三田綱秀が天文年間(1532~1554)に再興したが、その後三田氏は二俣尾の辛垣城で北條氏照により滅ぼされ、兵火により全山焼失した。その後、天正三(1575)年に復興され勅願所に列せられ、江戸時代には寺領一五石を拝領し、京に末寺を持つほどに栄えた。
 参道の途中に青梅線が走るようになってから、道路わきに慶長一七(1612)年建立の総門が移築された。青梅線の踏切を渡ると、石垣が続いており、季節になると朱色のつつじが斜面を彩る。
 石段の上には、寛政五(1793)年に建てられた山門がある。また本堂は火災により焼失し、平成四(1992)年、復元し再建された。
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2007/11/26


あきる野 広徳寺 Akiruno Koutoku-ji 

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 広徳寺(こうとくじ)は、東京都あきる野市を流れる秋川の南岸、秋川丘陵の麓に位置する寺で、鎌倉五山建長寺の末寺でもある。
 明徳年間(1390~1394)に、この地域の長者の妻が開基、応永十(1403)年に建長寺の住職により開山された。
 天文年間(1532~1555)には北条氏康により再興され、今も客殿には北条早雲、氏綱、氏康、氏政、氏直の各位牌が安置されている。
 室町建築の面影を残す茅葺の山門をくぐるとまずは参道を挟んで聳え立つ二本のイチョウの木が出迎えてくれる。季節が訪れれば、見事な紅葉を楽しませてくれる。
 江戸時代には一万二千坪もあり、その全体が都の指定史跡になっているという広い境内には大きなカヤとタラウヨがあり、格式ある本堂など、禅宗の伽藍との見事な調和を見せてくれる。
 都の天然記念物にもなっているタラウヨの葉の裏には文字が書けるため、今では葉の一枚一枚に参拝客の願い事が書き込まれ、願掛けの木のように親しまれている。
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