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2008/4/8


高台寺圓徳院 Koudaiji-entokuin 

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 圓徳院(えんとくいん)は、寛永九(1632)年に、北政所ねね(きたのまんどころねね)の次男・木下利房(きのしたとしふさ)により、高台寺の三江和尚(さんこうおしょう)を開基とした寺院である。また、北政所ねねの終焉の地である。
 豊臣秀吉(とよとみひでよし)の没後、その妻ねねは、「高台院」の号を勅賜されたのを機縁に高台寺建立を発願し、慶長一〇(1605)年、秀吉との思い出深い伏見城の化粧御殿と、その前庭を山内に移築して移り住んだという。
 それ以来、大名・禅僧・茶人・歌人・画家・陶芸家等多くの文化人が、北政所を慕って訪れたと伝えられている。
 また、小堀遠州(こぼりえんしゅう)作庭による庭園が、臥龍池(がりょうち)と偃月池(えんげつち)を中心に広がり、マツとカエデの木立の下にウマスギゴケが地面を覆っており、方丈前庭の白砂とウマスギゴケの植え込みなどの色彩が楽しめる。
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2008/1/30


綱木之里大名行列 Tsunagi-no-sato-daimyou-gyouretsu Tsunaginosato Daimyo’s Procession

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 綱木之里大名行列(つなぎのさとだいみょうぎょうれつ)は宮城県登米市東和町に伝承される行列練り。永禄七(1564)年、鳩岡城主の葛西民部少輔(かさいみんぶのしょう)が八幡神社を再建し、神輿等を寄進し祭日にやぶさめを奉納したときより始められ、現在は毎年九月中旬に開催されている。
 午前一一時にホラ貝と花火が鳴り響き、一行は八幡神社を出発。重々しい袴姿の露払い、騎馬先陣、道中奉行を先頭に、おみこし担ぎ、稚児行列、京都祇園囃子の流れを汲む打囃と総勢約120人ほどが続く。天狗と獅子が踊りながらやってきて、無病息災と子供たちの頭を噛むしぐさをしてみせる。
 左右に大きく体を揺らしながら進む奴たちは時折立ち止まり、手にしていた長さ三メートルを超える毛槍を威勢良く相手に投げ渡す。この「お取り替え」と言われる動作に、沿道からは歓声が上がる。
 やわらかい音色が響く雅やかなお練りだ。
 
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2007/8/10


大名行列 Daimyou-gyouretsu Daimyo’s Procession

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 徳川幕府三代将軍徳川家光は、幕府体制維持のために、武家諸法度に参勤交代をもりこみ制度化させた。これによって大名の妻や子は江戸に居住することを義務付けられ、大名自身は1年おきに江戸と国許を往復しなければならなくなった。この往復する大名一行の行列を大名行列という。
 この大名行列の人数、内容とも大名の石高によって細かく定められていた。よく映画などで見受ける「シタニー、シタニー」の掛け声の露払いを先頭に、六尺、挟み箱、毛槍、弓、鉄砲、徒士、小姓、大名、家老、大名籠、奥女中、腰元、長持などが続いていく。
 江戸時代最大の石高藩、加賀藩では実に二千五百人の行列という記録も残っている。
 江戸時代初期には各藩権威を争い華麗な行列であったが、経費がかさむことから次第に簡素化されていった。
 
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2007/8/9


岡崎市 六所神社 Okazaki-shi Rokusho-jinja Rokusho Shrine in Okazaki

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 岡崎市の六所神社(ろくしょじんじゃ)は、愛知県岡崎市明大寺町耳取にある神社である。祭神は、猿田彦命、塩土老翁命、事勝国勝長狭命。
 徳川氏発祥の地である松平郷の六所神社より、3柱の祭神の勧請を受けて創建したとされ、江戸時代には松平・徳川氏の産土神(うぶすながみ)として信仰を集めていた。現在は、他に12柱の神を祀る。
 また、徳川幕府からの厚い保護を受けており、楼門の前の石階段は五万石以上の大名のみ上ることを許されていた。
 慶長七(1602)年、徳川家康が社殿の造営を行い、その後、三代将軍・家光、四代将軍・家綱により社殿の改築や修復が行われ、本殿・幣殿・拝殿・楼門・神供所が重要文化財に指定されている。
 岡崎市の六所神社は、徳川家ゆかりの古刹である。
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2007/2/8


今市石畳 Imaichi-ishidatami Imaichi Stone-Paved Road

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 今市石畳(いまいちいしだたみ)は、その昔、参勤交代道路であった肥後街道の一部。昭和四十七(1972)年に県史跡に指定された、貴重な交通遺跡である。大分県の野津原町に位置する。
 野津原町は、慶長七(1601)年から肥後領になり、現今市市や野津原地区は、幕末まで肥後藩の宿場町となっていた。街道にはお茶屋が軒を連ね、物資が行き交う拠点として栄えたという。その当時の面影を残すのが今市石畳。幅6メートルの道の中央に幅2メートル、長さ660メートルにわたり切石が整然と並べられ、往時の大名行列の姿を彷彿とさせる。
 今市石畳は、毎年8月に行われる「篭かきレース」でも有名だ。今市が昔宿場町だったことからその時代を再現し、趣向を凝らした衣装を身にまとい、篭を担いで駆けめぐるものである。
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2007/2/7


暗峠 Kuragari-touge Kuragari Tōge Mountain Pass

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近世まで奈良と河内を結ぶ主要道であった旧奈良街道(国道308号)。暗峠(くらがりとうげ)は、その県境にある峠。
 江戸時代には参勤交代や庶民の奈良・初瀬・伊勢の参詣路として、また奈良から大阪間の物資輸送路の商業路として賑わった歴史のある峠道である。
 現在は、生駒山へ登るドライビングルートとして観光客に親しまれ、石畳や、道標、古い家並みが残り、往時の名残りを留めている。「石造阿弥陀如来立像」や「郡山城主柳沢氏の本陣跡と伝わる「本陣跡」など史跡も多い。江戸時代の俳聖・芭蕉は最後の旅でこの峠を越え、秀句「菊の香にくらがり登る節句かな」を残している。
 道路上から眺める生駒市の景色は絶景。眼下には見事な棚田が広がる。
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2007/2/1


彦根城 Hikone-jyo Hikone Castle

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 彦根城は、滋賀県彦根市金亀町にある井伊家の城である。別名・金亀城。国宝であり、国の特別史跡に指定されている。
 関ヶ原の合戦後、彦根藩初代藩主井伊直政の嫡子・直継と、二代藩主・直孝によって約20年の歳月をかけ、元和八(1622)年に完成した。
 白亜三層の天守は、今もなお気高い雄姿を誇り、姫路城、松本城、犬山城とならび国宝四城のひとつに数えられている。
 城内には国宝の天守のほか、天秤櫓や太鼓門櫓など重要文化財が数多く現存し、桜、新緑、紅葉、雪景色など四季折々の情緒を感じさせてくれる。
 また、月明かりに浮かぶ彦根城は美しく、琵琶湖八景の1つに数えられている。
 彦根城は、気高い雄姿を誇る、天下の名城である。
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2007/1/29


用作公園 Yujaku-kouen Yujaku Park

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 「用作」(ゆうじゃく)とは延応二(1240)年、大友能直の八男、志賀能郷がこの地に地頭屋敷を構えた際に所有する「用作田」(ようさくでん)がなまって伝わったもの。
 寛文四(1664)年、岡藩藩主中川清久より岡藩家老である中川平右衛門に岡城から最も近く、参勤交代道にあたる重要な場所として与えられた。
 平右衛門はここに屋敷を建て、楓と松を植え、心字池と丹字池の二つの池を作り、参勤交代の休憩所だけではない風光明媚な別荘地を作り上げた。
 後に岡藩の御客屋として、頼山陽や田能村竹田といった文人墨客も訪れ、園遊したと伝えられる。
 現在も11月には「もみじ祭」が開催され、岡山県有数の紅葉の名所として知られる。
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