NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/8/1


棗 Natsume 

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 棗(なつめ)は、茶器の一種で抹茶を入れるのに用いる木製の漆塗りの蓋物容器であり、植物の棗の実に形が似ていることからその名が付いたとされる。
 足利時代後期の塗師、羽田五郎により茶人、村田珠光に納めたものが最初とされるが、詳しい由来は定かではない。
 江戸時代初期までは棗が茶器に限らず用いられていたようで、元来は薬などを入れていた黒漆塗りの器の一種だと考えられており、茶器として一般に定着したのは千利休が好んだことも理由の一つとされている。
 こうした経緯もあって、単純な黒漆塗りのものだけでなく、茶室の趣ある書院飾りでも映えるように豪華な蒔絵が施されるようになり、今のような華やいだ茶器へと至ったとされている。
 その形も「利休型」と称される大棗・中棗・小棗を基本形として多くの種類が存在し、今も茶室の亭主座の傍らで、侘び・寂びの演出に一役買っている。
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2008/7/25


妙喜庵 待庵(国宝) Myoukian Taian(Kokuhou) 

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 妙喜庵・待庵(みょうきあん・たいあん)は、京都府乙訓郡大山崎町にある臨済宗東福寺派・豊興山妙喜庵境内に静かに佇ずむ茶室である。
 天正九(1582)年の羽柴秀吉と明智光秀による「山崎の合戦」の際、秀吉が山崎の地に陣を張った折、茶人として知られる千利休を招いて陣中に作らせた茶室が、現在地に移築されたと伝えられている。
 愛知県犬山市の如庵(じょあん)と京都府の大徳寺龍光院にある密庵(みったん)にならび、国宝に指定されている三茶室の一つであり、利休作とされる茶室としては国内唯一のものとされる。
 また、茶室建造物としては日本最古であり、数奇屋建築としての原型かつにじり口を設けた茶室の始まりでもある。
 この待庵が最初といわれる茶室に窓を設けたことなど、利休独特の構想が随所にちりばめられており、窓からさしこむ日差しは、黒ずんだ荒壁仕上げの壁に覆われた重厚な室内をよりいっそう趣ある空間に照らし出している。
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2008/7/4


付け下げ Tsukesage 

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 付け下げ(つけさげ)とは、日本の女性用の和服である。
 正装と普段着の間に位置するとされる着物で、正装との違いは絵羽模様がない事と、家紋が入っていない事とされる。
 絵羽模様とは、左右の身頃や肩から袖にかけて模様がつながっていない事である。
 元々は、華美な訪問着が禁止された第2次大戦戦時下に考案された模様つけの方法、またはその着物の事で、訪問着のように仮仕立てにして絵羽模様を描かず、反物の状態で、着た時に模様が全て上を向くように描いたものであった。
 パーティー、小さな集まり、観劇など、訪問着を着て行くには少し大げさな場面で着用する。
 また、その控え目な模様は、茶席の着物に向いており、茶人の着物としても重宝されている。
 付け下げは、未婚、既婚を問わず着られる、準礼装に近い女性用の着物である。
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2008/6/10


銅蟲 Doucyuu 

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 銅蟲(どうちゅう)とは、銅の表面に独特の鎚目(つちめ)と赤銅色を出すことに特徴を持つ銅製品で、広島県指定の伝統工芸品である。
 江戸時代初期、広島藩主・浅野長晟(あさのながあきら)がお抱の銅細工職人に創案させた技法といわれており、その職人の仕事振りに痛く感心した浅野公が「銅の蟲(むし)のようだ」といったことから、その名が付けられたとされている。
 その製法は、まず特殊な銅の合金板を焼き鈍して成型加工した上で、表面を金づちで叩いて槌目の模様を入れる。その後に稲藁で一品一品を燻すことで、他に類を見ない独特の深みと重厚感を持った赤銅色が浮かび上がってくる。
 表面は乾拭きすることで、年月と共に光沢や渋味が増し、漆黒の表目に浮かぶ赤銅色の独特の風合は、よりいっそう、その魅力を解き放つ。
 茶人や趣味人にも愛されたそれらの逸品は、主人の傍らで同じ年月を過ごしながら、日々、その輝きを増していく。
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2008/4/15


美濃焼手描きチョーカー Minoyaki-tegaki-choukaa 

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 戦国武将・古田織部(ふるたおりべ)は、茶人であり、茶器製作・建築・造園などにわたって「織部好み」と呼ばれる一大流行を安土桃山時代にもたらした。
 その織部に愛された美濃焼(みのやき)は、この時代にそれまでになかった自由な発想で登場し、美濃桃山陶とも呼ばれる。
 美濃焼手描きチョーカーは、一つひとつ手描きの模様がとても繊細で、温かみがある手作りの品である。
 全て手作りのため、多少のサイズの誤差、形の不揃いなどがあるが、同時にそれは全く同じものはないと言う事であり、自分ひとりだけのチョーカーとして楽しむ事が出来る。
 美濃焼手描きチョーカーは、首もとを飾る、シンプルでおしゃれなアクセサリーである。
 
トップのサイズは直径14mm
紐の長さ約42cm
アジャスター5cm
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2008/4/8


高台寺圓徳院 Koudaiji-entokuin 

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 圓徳院(えんとくいん)は、寛永九(1632)年に、北政所ねね(きたのまんどころねね)の次男・木下利房(きのしたとしふさ)により、高台寺の三江和尚(さんこうおしょう)を開基とした寺院である。また、北政所ねねの終焉の地である。
 豊臣秀吉(とよとみひでよし)の没後、その妻ねねは、「高台院」の号を勅賜されたのを機縁に高台寺建立を発願し、慶長一〇(1605)年、秀吉との思い出深い伏見城の化粧御殿と、その前庭を山内に移築して移り住んだという。
 それ以来、大名・禅僧・茶人・歌人・画家・陶芸家等多くの文化人が、北政所を慕って訪れたと伝えられている。
 また、小堀遠州(こぼりえんしゅう)作庭による庭園が、臥龍池(がりょうち)と偃月池(えんげつち)を中心に広がり、マツとカエデの木立の下にウマスギゴケが地面を覆っており、方丈前庭の白砂とウマスギゴケの植え込みなどの色彩が楽しめる。
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2008/3/18


松橋焼 Matsubase-yaki 

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 熊本県宇城市(うきし)の松橋町で生まれた陶磁器として知られる「松橋焼(まつばせやき)」は、江戸時代初期から伝わる焼物である。
 文禄・慶長の役(1592~1598)の際、加藤清正・細川三斎らが朝鮮から陶工を呼び寄せ、熊本の近世の窯業が始まったといわれている。
 松橋町の松橋焼も、江戸時代初期から中期にかけて盛んに焼かれ、松橋の土を焼いた素朴な風情は当時の茶人達に好まれたと伝えられる。しかし、当時のものは散逸してほとんど伝わっていない。
 昭和四七(1972)年、陶芸家を父に持つ原構成が、松橋焼の再興と新たな気を吹き込むため現在地に「構成窯」を築窯。松橋焼は、松橋の鉄分を含む砂気のある粘土と青磁釉でつくられ、主に食器類が生産されている。
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2008/2/27


数寄屋造り(すきやづくり) Sukiyazukuri 

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 数寄屋造り(すきやづくり)は、日本における建築様式の一つであり、数寄屋と呼ばれる茶室建築の意匠を取り入れた建築様式のことである。
 そうした茶室は安土桃山時代頃から見受けられ、これは格式を重んじた「書院造」も確立されだしたころと同時期でもある。
 茶人を初めとした風流を愛する「数寄者」達は、格式ばった意匠や重厚で豪華な装飾を施す書院造を嫌い、シンプルで軽妙な数寄屋を好んだのである。
 茶人として名高い千利休によって完成されたといわれ、書院建築に見られる格式や様式を極力排し、シンプルかつ洗練された意匠になっていることが特徴であり、床の間の上にあり、柱を水平方向につなぐ長押(なげし)を排したり、それに合わせて床の間も小規模なものになっている。
 また、内部空間に落ち着きと静かさをもたらすことを狙って、庇(ひさし)が長めに造られいるのも特徴だ。
 数寄者の先人達は、庇から垂れ込める影にも風流を見出していたのかもしれない。
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