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2008/11/13


三原やっさ祭 mihara-yassa-matsuri 

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 三原やっさ祭は、広島県三原市でおこなわれる中国地方を代表する夏祭りである。
 ♪見たか聞いたか 三原の城は 地から湧いたか 浮城かヨ♪
この「やっさ踊り」を中心に、八月の第二日曜日を含む金・土・日の三日間にわたり開催され、毎年約三〇万人以上の人手で賑わう。
 「やっさ踊り」の起源は古く、永禄一〇(1567)年に毛利元就の三男の小早川隆景が、小島をつないで海の上に築城した三原城の完成を祝って踊ったことがはじまりとされている。
 「やっさ、やっさ」という囃し詞(はやしことば)から「やっさ踊り」と呼ばれるようになり、以来、民の祝い事は「やっさに始まりやっさに終わる」とまでいわれるほど、地域に根付いたものとなった。
 この踊りは、踊りや歌詞、身なりにいたるまで特定の型がなく、囃しのリズムに合わせて自由な所作で奔放に踊ることが特徴。
 「足の踊り」ともいわれくらい動きのある踊りのため、見ているだけで心も躍る、底抜けに明るい祭りである。
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2008/11/12


明王寺 鬼追い・鬼踊り myouou-ji oni-oi oni-odori 

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 兵庫県神戸市には、いくつかの鬼追い行事が残っているが、垂水区名谷町(たるみくみょうだにちょう)にある明王寺(みょうおうじ)の鬼追い・鬼踊り(おにおい・おにおどり)もそのひとつである。
 鬼追いは、追儺会(ついなえ)ともいわれる寺院の年頭行事である。中国でおこなわれていた、年の終わりに悪鬼を駆逐する追儺行事が伝わり、小正月から節分にかけてその年の平穏や五穀豊穣を祈る行事をおこなうようになった。
 鬼は太郎鬼・次郎鬼・婆々鬼、4匹の小鬼が登場する。太郎鬼は木製の槌、次郎鬼は木製の斧、婆々鬼は木製の槍を持つ。小鬼たちは樫の棒を持ち、頭に白い紙の細長い紙垂(かみたれ)の束を被る。
 本堂で法要が終わると、太鼓と法螺貝(ほらがい)を合図に鬼たちが登場する。小鬼は外陣(げじん)の左右両端に分かれ、2人一組になり棒を打ち合わせ床を突く。
 外陣中央では、鬼が松明を持って登場し、内陣(ないじん)の台の上に置かれた鏡餅を太郎鬼と婆々鬼が松明で叩き、次郎鬼が中央で斧を使い、餅割をする。
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2008/9/29


青島盆踊り Aoshima-bon-odori 

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 愛媛県大洲市の青島盆踊り(あおしまぼんおどり)は、毎年八月一三・一四日に開催される大掛かりで華やかな伝統行事である。
 一三日には魚を供養する賑やかな踊りの大漁踊りが、一四日には死者の霊を慰めるため、赤穂四十七士の亡者踊りが披露される。討ち入りの衣装や、鎧兜などを身につけ舞う亡者踊りは哀愁を帯びた印象である。
 青島は一七世紀までは無人島であったが、島原の乱により頻繁に船が往来しはじめ、播磨(はりま)の漁師が立ち寄ったことをきっかけに、播州(ばんしゅう)からの移住者が増えた。それが青島の盆踊りが赤穂四十七士にまつわる由来とされる。現在は県指定の無形民俗文化財に指定されている。
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2008/9/10


疱瘡踊り Housou-odori 

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 疱瘡(ほうそう)踊りは、鹿児島県南さつま市に伝わる郷土芸能である。県の無形民俗文化財に指定されている。藩政時代から踊り継がれてきた古い踊りである。
 治療方法が分からなかった時代、疱瘡やコレラなど、人力の及ばない病気はひたすら神仏に加護を求め、悪疫の終息を願うしかその術を知らなかった事から、これが疱瘡踊りの起源といわれている。
 天然痘が絶滅し、踊りも一時途絶えていたが、終戦後に復活し、今では毎年二月一一日に、地域の行事や花尾神社の大祭などで踊られている。
 踊りは、女性20名程度と歌い手3~4名で構成される、歌のリズムに合わせた静かなもので、踊り手・歌い手とも着物姿で、手には神様を守る力があるという御幣(シベ)を持って踊る。
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中山の虚無僧踊 Chuuzan-no-komusou-odori 

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 鹿児島県鹿児島市に伝わる中山(ちゅうざん)の虚無僧踊(こむそうおどり)は、七月下旬に白山神社で奉納される踊りで、昭和三八(1963)年に県の無形民俗文化財に指定されている。
 虚無僧踊が始まった由来は、豊臣氏が滅亡したとき、豊臣家の家臣親だった有水善右衛門重政(ありみずぜんえもんしげまさ)が主家の再興を図って農兵を興そうとして踊りを教えたという説と、王政復古の頃に、虚無僧に扮した幕府の密使が無礼な振る舞いをしたため、農民たちが持ち合わせていた天秤棒で密使を打ち果たしたという二つの説がある。
 この踊りは棒踊りの一種で、踊り子の中心は中山町下の平馬場・福永・真方・大薗の四地区の二才組と呼ばれる青年達である。虚無僧と棒つかいが、棒・小太刀・扇子と三種の持ち物を扱い、体型や踊りに変化を持たせて勇壮活発な踊りをみせる。
 
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2008/9/5


下倉の田植踊 Shimokura-no-taue-odori 

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 田植踊(たうえおどり)はもともとは正月を中心として行われる、豊作をあらかじめ願い祝う予祝行事だ。
 東北地方一帯ではこの田植踊が風流化され、地域性の濃い芸内容を持った踊りとして展開し、正月以外にも披露されるようになった。
 下倉の田植踊(しもくらのたうえおどり)は宮城県仙台市青葉区で開催されている踊りで、毎年九月二九日の夜に行われている。
 午後六時頃、早乙女と青い頭巾に黒い衣装の子供など約二〇名が現れ、太鼓の音とともに踊る。歌の調子は情緒的で切ない。また、江戸時代に流行した歌舞伎踊りの風情がみられる。
 宮城県指定の民俗文化財になっており、下倉の田植踊保存会が伝承を守っている。
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2008/9/4


早稲谷鹿踊 Waseya-shishi-odori 

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 早稲谷鹿踊(わせやししおどり)は、宮城県気仙沼市の早稲谷地区に伝わる伝統芸能である。
 宮城県内から岩手県南方にかけて見られる八つ鹿踊り(やつしかおどり)の一つとされ、文政十(1827)年、岩手県大原山口の喜左衛門という人物から、現在の気仙沼市八瀬地区にあたる月立八瀬に住む林蔵に伝承されたものだといわれている。
 竹を削って結束した、長さ3m以上になるササラを背中に立てた八人の踊り手が、腰太鼓を打ちながら唄い、勇壮に踊り跳ねる。
 祖先の霊を供養する行事として始まり、現在では毎年の旧暦六月二十四日に、地区内にある「甘酒地蔵尊」の祭典で、災厄や疫病を払う魔除けの踊りとして奉納されている。
 仙台藩祖、伊達政宗公から「仰山(ぎょうさん)なり」と賞詞されたという言い伝えから「仰山流」と称するその踊りは、その名のとおり鹿の動きを大げさに、しかし優美なまでの舞として今に伝え、我々を楽しませてくれている。
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野口鹿踊 Noguchi-no-shishi-odori 

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 野口鹿踊(のぐちのししおどり)は、宮城県仙台市太白区に伝わる、五穀豊穣、悪魔退散、家内安全を祈願する踊りだ。宮城県の民俗文化財に指定されている。
 もともとは盆の季節に先祖供養の踊りで、五色御幣(ごしきごへい)を配りながら集落の各戸を練り歩いていたという。
 他の地域の鹿踊りが白く長い角を付けた鹿に扮しているのに比べ、この野口鹿踊りは異形の鹿頭に五色御幣を背負い、太鼓を身につけて踊る。この鹿役の周りを道化面を付けた「ささらすり」が踊り、子供たちが鐘をならす。陰陽五行の古い信仰に基づいた姿形が、踊庭や装束などに残っている。
 
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