NIPPON Kichi - 日本吉

記事数46件: 1~8 件表示     >>     >|  

2008/3/24


そろばん Soroban 

Jp

 そろばんは、計算補助器具の一種であり、その最古のものはギリシアのサラミス島で発見された、紀元前三〇〇年頃のものといわれるほど、古くから存在している。
 算盤や十露盤とも書き、算盤の中国読みである「スワンパン」が変化して「そろばん」と呼ぶようになったといわれており、日本には室町時代に、宋の商人によって伝えられたとされる。
 木製の珠と枠、梁、芯を組み合わせて作られており、それぞれの芯は梁に通し、四辺を枠によって固定、芯には珠が、梁を境に上側に一つ下側に四つ通されている。
 この珠を上が五で下を一つが一、珠が通された芯一つを一桁と捉え、珠を移動させることによって計算を行う。例えば、五+三であれば、まず上の珠を下にずらして五を盤上に表し、次に足す三は下の珠三つを上へずらす。これで、盤上には上の五と下の三の合わせて八が表されることになる。
 現代では電卓やコンピュータの普及で、そろばんの出番は少なくなりつつあるが、教育用具としてのそろばんの価値は再認識されてきている。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2008/3/18


猿楽神社 Sarugaku-jinja 

Jp

 猿楽神社(さるがくじんじゃ)は東京都渋谷区の代官山、ヒルサイドテラスの一角にたたずむ小さな神社である。
 もともとは古墳時代末期、六世紀から七世紀に死者を埋葬した円墳の猿楽塚に建てられた神社である。
 かつて、猿楽塚には大小二基の古墳があり、その間には鎌倉街道が通っていた。大正時代にそのうちの一つを取り壊したところ中から多くの武具が見つかり、その作業を指示していた棟梁が奇病に取り付かれ、武具を元の場所に返したところ、棟梁の病気が回復したので、残された塚の上に猿楽神社が建立されたという。
 今では、毎年一一月にはヒルサイドテラスで猿楽神社の秋の祭礼が執り行われ、合わせて代官山フェスティバル猿楽祭も三日間繰り広げられている。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2008/3/5


月のお皿 Tsukino-osara Moon Plate

Jp En

 かつて日本には、満ち欠けによって形を変える月を描写する多くの言葉があった。新月、繊月(さんげつ)、三日月、上弦の月、下弦の月、小望月(こもちづき)、立待月(たちまちづき)、寝待月(ねまちづき)、有明月などの呼び名は、どれも風情にあふれている。
 柴田睦子作「月のお皿」は、金色の飛沫模様が美しい平らな皿だ。デザインはシンプルにして、その姿は威風堂々。静かさの中に強さがある。乗せる料理や季節の食材によって、皿と料理のふたつの表情が豊かに変わる様を味わえるのは、日常の贅沢。
 料理をあしらっておぼろ月夜に見立てるもよし、金の飛沫に月光のしずくを感じるもよし。客人のもてなしはもちろんのこと、ふだんづかいの皿としても役立つ一品である。
 
サイズ:(センチ)
(大)横27×奥27×高2・5
(小)横15×奥15×高2
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2008/2/27


蟇股(かえるまた) Kaeru-mata 

Jp

 蟇股(かえるまた)は、木造建築物などで、横に渡された梁など上からの加重を支える構造材の一種で、カエルが足を広げて踏ん張っているような形をしていることから、この名が付いたとされる。
 日本で独自に発達した、和様建築のみに見られる構造であり、元々は機能優先のものであったが、次第に装飾としての意匠も施されるようになった。
 平安時代に入ってからは、本来の構造材としてよりも装飾を施す目的で用いられるようになり、意匠材としての役割を果たすようになっていく。
 室町時代以降はその意匠も華美を極め、厚い板の表面に彫刻を施した「板蛙股」や内部をくりぬいて透かし彫りとした「本蛙股」など、現代にも残る国宝級の建物にも、そうした豪奢な意匠が数多く見受けられる。
 神社やお寺に赴く機会があるならば、豪華な伽藍だけではなく、そのほんの一部である蟇股に注目して巡ってみるのも面白いかもしれない。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2008/1/8


旧取手宿本陣 Kyu-toridejuku-honjin Old Toridejuku Honjin

Jp En

 貞享四(1687)年に、水戸街道を通る大名などが利用する宿である本陣として取手宿の名主である染野家が選ばれた。それが旧取手宿本陣(きゅうとりでじゅくほんじん)である。
 寛政六(1794)年に一度焼失、翌年に立て直されたものが現在の母屋である。
 寄棟茅葺、桁行19m、梁間13・3mの大型の民家だが、式台玄関の上部に入母屋破風を造っており、重厚感を出している。
 内部は、宿泊を行う本陣部分と住宅部分が分かれており、三間続きの間や、書院造りの上段の間等があり、風格を重んじた造りとなっている。
 敷地内には、第9代水戸藩主徳川斉昭が天保一一(1840)年に水戸に戻る途中の利根川での船で詠んだ唄「指して行 さほのとりての渡し舟 おもふかたへは とくつきにけり」と、石に刻んだ歌碑が残っている。この歌碑は、後に江戸屋敷から届けられたもので、水戸徳川家と染野家のゆかりを示している。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2007/12/26


旧上関番所 Kyuu-kaminoseki-bansho Kaminoseki Guard Station

Jp En

 山口県上関町長島に所在する「旧上関番所(きゅうかみのせきばんしょ)」は、江戸時代に藩の出先機関として、港の警備や見張り、積荷の検査などを行う役人の詰め所として利用されていた。
 藩政時代初期の数少ない行政機関の遺構として大変貴重で、かつては港の中にあったものを平成八(1996)年に現在の場所に移築、復元し当初の姿に蘇らせた。
 瀬戸内海西部には船の荷を検査する番所がいくつか設置されていて、現在の山口県においても、都に近い方から「上関」「中関」「下関」と番所が設置されていた。
 上関番所は桁行11・66m、梁間3・86mの本瓦葺きの木造入母屋造りで、四面に下屋を持つ建物である。県指定の有形文化財になっている。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2007/11/28


妙宣寺 五重塔 Myousen-ji Gojuu-no-tou 

Jp

 佐渡には新潟県内唯一の五重塔がある。妙宣寺(みょうせんじ)の五重塔、国の重要文化財である。
 寺のはじまりは、鎌倉中期、法華経を唱えた日蓮が佐渡へ流された時、日蓮の身の回りの世話をしていた遠藤為盛と妻の千日尼が自宅を寺として開基したのが始まりだと伝えられている。弘安元(1278)年のことである。為盛は日蓮の直弟子となり後に阿仏房日得上人といわれた。寺には日蓮聖人筆書状などが残されている。
 五重塔は、佐渡相川の宮大工の棟梁親子が三十年の歳月をかけ、文政八(1825)年に完成させた。日光東照宮の五重塔を模したといわれるその姿は、高さ約24m、本瓦葺の純和様で、四天柱と心柱を貫(ぬき)でつなぐ独自の手法が用いられている。東照宮の五重塔は文化一四(1817)年の再建である。
 初層の隅木(すみぎ)下の持送りには、棟梁作の竜頭の彫刻が見られるなど、地方色豊かな仕上がりになっている。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2007/11/14


越前大野 旧内山家 Echizen-oono Kyuu-Uchiyama-ke 

Jp

 越前大野の旧内山家(きゅううちやまけ)は、福井県大野市城町にある建築物である。
 幕末に大野藩の藩政改革に尽力した家老・内山七郎右衛門良休(うちやましちろううえもんりょうきゅう)は、藩営の商店を開業したり、銅山経営で手腕を発揮して多額の借金に苦しんでいた藩財政を立て直した人物である。
 旧内山家は、良休と弟の隆佐良隆の屋敷を復元したもので、母屋は明治一五(1882)年ごろ建築された梁間4間、桁行7間の平入り2階建てとなっており、屋根は現在は瓦葺だが、元は板葺であったとされる。
 天井の空間を広く使うための2階の舟底天井や、井戸のある台所などが設けられた造りが興味深く、他に数奇屋風書院の離れや衣装蔵、米蔵、味噌蔵と広い庭が存在する。
 越前大野の旧内山家は、当時の武士の暮らしが伺える、貴重な武家屋敷である。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



記事数46件: 1~8 件表示     >>     >|  
NIPPON Kichi - 日本吉 - 日本語に切り替える NIPPON Kichi - 日本吉 - to english

モノ・コト・ミル・ヒトで綴る
日本の美意識。

現在の記事 5444
カテゴリーズ
都道府県
キーワードシャッフル
お気に入り
キーワード検索
閲覧履歴



Linkclub NewsLetter