NIPPON Kichi - 日本吉

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2007/10/22


村雲御所 瑞龍寺 Murakumo-gosho Zuiryuu-ji Murakumo-gosho Zuiryuu-ji Temple

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 日蓮宗唯一の門跡寺院である村雲御所瑞龍寺(むらくもごしょずいりゅうじ)。今は滋賀県の八幡山の山頂にある。
 文禄五(1596)年、豊臣秀吉より切腹を命じられた、わが子秀次の菩提を弔うために、秀吉の姉、日秀尼(にっしゅうに)が創建したのが始まりである。
 この時、日秀尼は後陽成天皇から京都嵯峨の村雲の地と瑞龍寺の寺号を賜るのであるが、その後も宮家や摂関家からの入寺があったため、門跡寺院となり、村雲御所とも呼ばれるようになった。江戸時代には、嵯峨から西陣に移り、今は西陣織会館前に「村雲御所跡」の碑が立っている。
 昭和三七(1962)年、この寺の復興に生涯をかけた一二世貫首・日英尼は、秀次ゆかりの近江八幡城本丸跡への移転を決意し、現在の地に移った。
 遠くに鈴鹿連山の美しい山並み、南は近江の町並み、そして東には琵琶湖を一望できる。移築された本堂や庭園は、その後門跡たちの手によって整えられ、開かれた寺として、人々を迎え入れてくれる。
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2007/8/21


日本コバ Nihon-koba Nihonkoba

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 日本コバ(にほんこば)は、滋賀県東近江市永源寺高野町にそびえる標高934mの山である。
 永源寺ダムの北側にあり、鈴鹿山脈の一峰で、ダムと湖東平野を隔てる山々の中の最高峰ともなっている。
 コバは伐木集積用小平地「木場」の意味で、湖東を一望する素晴らしい頂上を「日本一のコバ」と誇ったから付いた名ではないかと言われている。
 その異様なほど山頂部の平たい形が印象的で、鈴鹿の主稜線からは遠く離れているため、登山者は少なく、静かな山旅が楽しめる。
 山頂は30~40人が休めるほどの広場となっており、霊仙岳・御池岳・藤原岳などを見渡せる展望も素晴らしい。
 他にも美しい藤川谷や奇人の窟、湿地帯などの見所が存在する。
 日本コバは、珍しい名と美しい景観を持った山である。
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2007/7/25


伊勢型紙 Ise-katagami Ise-Katagami

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 伊勢型紙(いせかみがた)は、三重県伊勢市に伝わる伝統美術工芸品である。
 古来、伊勢の地・現在の鈴鹿市で作られ、飛び地として紀州藩によって庇護された伊勢商人によって全国に販売されていたため、この名で呼ばれてきた。
 伊勢型紙とは、きものなどの型染めに用いる型紙のひとつで、渋紙にさまざまな手彫りの技法で緻密な文様や優雅な図柄を彫り抜いたもの。
 主な用途は、友禅、ゆかた、小紋などの文様を着物の生地に染めるためであるが、着物を染めるだけなく、陶器、ガラス、ゴザなどにも模様をつけるために使われたり、新聞の見出しの「もんがら」などにも使われている。
 伊勢型紙は、1000年の伝統を誇る、独特の技法で仕上げる、晴らしい工芸品である。
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2007/6/21


庄野宿 Shouno-juku Shono-juku

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 庄野宿(しょうのじゅく)は東海道五十三次、四五番目の宿場。現在の三重県鈴鹿市にあたる。
 東海道が徳川家康によって整備されたのは、慶長六(1601)年だが、この庄野宿は最後の寛永元(1624)年に作られた。隣の石薬師宿(いしやくしじゅく)からは一里にも満たない距離で、東は日永の追分、西は関から別ルートを通行することが一般的になっていた。
 そのため人通りは少なく、この宿場を通る客のほとんどは休憩のみだったため、幕府の直轄地であった庄野宿は、不振を理由に人足百人・伝馬百疋から、人足五十人・伝馬五十疋の半分まで幕府により削減が行われることがあるなど、非常に苦労を重ねた宿場でもある。
 そのような不振にあえぎながらも、安藤広重の残した東海道五十三次の中では「庄野」は非常に人気が高く、目にする機会も多い。
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坂下宿 Sakashita-juku Sakashita-juku

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 坂下宿(さかしたじゅく)は、東海道五十三次の四七番目の宿場。
 現在の三重県亀山市にあたる。
 三重県と滋賀県の県境、箱根と並び称された東海道の難所、鈴鹿峠の東麓に位置する。元々は片山神社の参道付近にあったが、慶安三(1650)年の洪水で発生した土石流で壊滅したため、現在の場所に移転することとなった。
 「坂の下では大竹小竹・宿がとりたや小竹屋に」という唄が残っており、「坂下宿の本陣、大竹屋に泊まるのは無理だが、せめて脇本陣の小竹屋に泊まってみたい」という意味で、当時の宿場の旅籠の規模が分かる。
 安藤広重がこの地の絵を残しているが、移転した後の風景を描いている。室町時代の絵師である狩野元信が美しい絶景をうまく描けずに筆を投げたことから名前がついた筆捨山(ふですてやま)が見事に描かれている。
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土山宿 Tsuchiyama-juku Tsuchiyama-juku

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 土山宿(つちやまじゅく)は、東海道五十三次、四三番目の宿場。現在の滋賀県甲賀市、旧土山町にあたる。
 江戸から向かう道中の難所、鈴鹿峠を超えたところに設けられていた。
 「坂は照る照る・鈴鹿は曇る・あいの土山雨が降る」と唄われているように雨が多く、安藤広重の残した「土山春之雨」には絶え間なく雨の降り続く木立の間を、旅人の列が肩を濡らしながら歩く様が表現されている。
 実際には、手前にあたる坂下宿の方が雨量は多かったようだが、鈴鹿峠を境に天候が変わる様子を表現したと推測される。
 現在は当時の旅籠跡や、東海道一里塚跡、本陣跡、松並木など、当時を偲ばせる史跡が複数残されている。
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2007/6/11


関宿 Seki-juku Seki-juku Post Town

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 関宿(せきじゅく)とは、その名の通り「関所の宿場」であったところ。ただしこれは、江戸時代の関所ではなく、六七二年の壬申の乱の時に鈴鹿の関として固められたものである。越前の愛発(あらち)、美濃の不破(ふわ)とともに古代日本三関と言われていたが、七八九年に廃止されている。
 中世の頃は関氏の所領として、地蔵院を中心に門前町から宿場町へと変化しながら栄えた。
 慶長六(1601)年、徳川幕府の宿駅制により、品川宿から数えて四七番目の宿場となったのが、現在の関宿、三重県亀山市関町木崎・中町・新所だ。ここは東海道五十三次の宿場の中で唯一往時の町並みを残しており、昭和五九年に国の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されて以来、その保存と、歴史的な町並みの特性を活かした新しい町づくりに取り組んできている。
 街並は東から4つの地区に分けられ、家並みの低い町家が続く木崎、本陣・問屋・旅籠が集まる中町、地蔵院門前の新所、寺社が集まる北裏と、それぞれ特徴を持っている。
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2007/4/25


伊藤明雄 Itou Akio 

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 三重県、鈴鹿市に伝わる伝統工芸品、鈴鹿墨の伝統工芸士。
 鈴鹿墨は伝統工芸品に指定されている唯一の墨である。
 墨は各種油を燃やした煤、にかわ、香料が原材料であり、これらを混ぜ合わせて墨玉と言われる塊を作り、木箱で形を整える。その後数ヶ月をかけて乾燥を行い、加工を施して完成する。
 墨玉の練りこみは、にかわが腐らない冬に行なわれ、厳しい冬の中で乾燥や硬さを調整しながらの力仕事であり、熟練の技術を要する。
 氏は中学卒業後から墨工の父に師事したが、必要以上のことは教わらず、体で経験を積み重ねたという。
 鮮やかな濃淡を作り出す墨は人気が高く、多くの書家に愛用されている。
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