NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/9/12


乃木神社 Nogi-jinjya 

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 乃木(のぎ)神社は、東京都港区赤坂にある神社である。祭神は、乃木希典(のぎまれすけ)将軍、乃木静子夫人。
 乃木希典は、嘉永二(1849)年生まれの長府藩士で、明治時代以後、陸軍軍人として活躍した。特に、日露戦争では陸軍大将として、海軍の東郷平八郎大将とともに英雄とされ、「聖将」とも呼ばれた。大正元(1912)年、乃木夫妻は明治天皇の後を追い殉死し、日本国民に多大な衝撃を与えた。
 神社は、大正一二(1923)年に乃木将軍夫妻の英霊を祀り、国民崇敬の祠とすることを目的として創建された。昭和二〇(1945)年の空襲により社殿を焼失したが、昭和三七(1962)年、祭神50年祭に合わせて本殿・幣殿・拝殿が復興された。
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2007/10/11


龍華山等覚寺 Ryuuge-zan-toukaku-ji 

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 伊達氏の城下町として発展してきた宇和島。JR宇和島駅の南側を流れる辰野川を挟むようにして、神社仏閣が建ち並ぶ。川辺の路地を上流へしばらく進むと、野川地区の入り口に龍華山等覚寺(りゅうげざんとうかくじ)が見えてくる。敷地には荘厳な墓石が連なる。ここは伊達家の菩提寺として知られる。
 等覚寺は元和四(1618)年、生母の菩提を弔うため初代藩主・伊達秀宗(だてひでむね)が建立。当時は白雲山龍泉寺と号したが、万治元(1658)年に秀宗の墓所となってからは浄妙山等覚寺と改め、さらに安永七(1778)年に山号を龍華山と改称して現在に至る。
 本堂と庫裏は、昭和二〇(1945)年の戦災により焼失したが、鐘楼のある山門だけは残り、わずかに当時を偲ばせる。
 墓には、初代~四代、六代、八代の各藩主のほかに、藩主夫人や殉死した藩士まで葬られている。墓からは宇和島城を望むことができる。
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2007/9/6


長泉寺 Chousen-ji Chosenji Temple

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 長泉寺(ちょうせんじ)は、宮城県角田市角田長泉寺にある曹洞宗の寺である。本尊は釈迦牟尼仏。
 高源山または六国峯と号し、千葉県市川市総寧寺を本寺とする東北屈指の名刹である。
 永享八(1436)年、磐城国三芦城主・石川持光を開基とし、即庵宗覚禅師を開山として福島県石川町に創建された。
 石川氏の篤い外護を受けるが、豊臣秀吉の奥州仕置による石川昭光の角田移封にともない、慶長三(1598)年、寺籍を角田に移転し、現在地に長泉寺を移建した。
 本堂のほか客殿・位牌堂・書院・庫裏・表門・中門・鐘楼などを備え、中門はもと角田城の内門を移転したもの。
 本堂奥の霊屋(おたまや)には、石川昭光の木像と殉死七士像が祀られている。
 長泉寺は、石川氏ゆかりの落ち着いた古刹である。
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2007/2/16


寒河江城 Sagae-jyo Sagae Castle

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 寒河江城は、山形県寒河江市丸内にあった城である。
 寒河江城は、鎌倉時代に大江広元の嫡男親広が、寒河江に居館を構えたのが始まりとされる。大江時氏は寒河江城を修築して、三重の堀を持つ大きな城とした。
 天正十二(1584)年、最上義光との戦いに敗れ、大江氏は滅亡した。
 その後寒河江肥前の城となったが、義光の死去に際して肥前は殉死し、寒河江城は空城となった。
 1622年、最上氏が改易となり、鳥居忠政が山形藩主となると残されていた寒河江城も破壊され、廃城となった。
 現在の寒河江小学校敷地が本丸跡と言われている。宅地化によって遺構はなくなってしまい、西側をのぞく三方に堀の名残が残されている程度である。
 寒河江城は、地元の豪族・大江氏の、往時を偲ばせる城である。
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