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2007/5/1


城南宮 Jyounan-guu 

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 城南宮のある鳥羽の地は、平安京の南にあり、平安京の表玄関に当たる交通の要衝である。
 平安京に都が定められるにあたり、国常立尊(くにとこたちのみこと)・八干矛神(やちほこのかみ(おおくにぬしのみこと))・神功皇后(じんぐうこうご)を祀り都の守護としたことがはじまりである。
 またここは、鴨川に臨む水郷の景勝地で、平安時代の末に白河上皇の離宮が立てられ院政の中心として賑わいをみせた。
 社殿を取り囲むように「楽水苑」と呼ばれる庭があり、伏見の地下水を引き入れた五つの庭で構成されている。
 源氏物語の六條院をモデルにした「春の山」。曲水の宴が催される「平安の庭」。、茶室を配した池泉廻遊式の「室町の庭」。枝垂桜が咲き誇る豪奢な「桃山の庭」。そして院政の時代、城南の地がもっとも賑わった頃を枯山水で表現した「離宮の庭」。
 この庭のあり様は、まさに京に都があった1千年もの間、時代の節目を刻みながら都の歴史を南から見つめた城南の姿である。
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京都 二条城 Kyoto-nijyou-jyou 

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 京都、二条通堀川。御所の西を固めるように位置する。関が原の戦いの後、徳川家康が、上洛時の宿所として作った平城。現在は京都市の管理の元、恩賜元離宮二条城として公開されている。
 徳川幕府にとっては、その最初と最後の転換の舞台となった場所である。豊臣秀頼との会見の後、大坂の陣を経て徳川体制が磐石となり、その二五〇年後、徳川最後の将軍十五代慶喜が二条城二の丸御殿の大広間で大政奉還を行った。二の丸御殿は国宝である。
 徳川家は大坂夏の陣の後、、規模拡張のため伏見城から多くの建物を移している。そのため建物は秀吉が残したものと、徳川家が残したものが総合されており、桃山・江戸初期の様式の全貌を見ることができる。そして、本丸は江戸中期に市中の大火で焼失していたため、明治になって京都御苑の北にあった旧桂宮邸を移築したものである。本丸御殿の南には、洋風庭園がある。
 戦国から江戸そして明治・昭和へ。幾多の変遷を重ねながらも、京における徳川の拠点としての「華」が今もまばゆい。
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2007/4/23


桂離宮 Katsura-rikyu 

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 桂離宮(かつらりきゅう)は京都市西京区、桂川の西岸に位置する八条宮家の別荘である。
 江戸時代初期に八条宮智仁親王により古書院が建築され、その後八条宮智忠親王により中書院、新御殿が増築され現在の形となった。
 桂川から水を引いて造園された庭園は回遊式庭園として築かれている。
 入母屋造、柿葺(こけらぶき)で作られた建物は書院造の中に多くの幾何学模様など西洋建築の技法を取り入れた斬新なものである。
 古書院縁側にある「月見台」、「歌月」の額や松琴亭の月見窓など多くの月を意匠とした観月の主題を持つ庭園としても知られる日本を代表する名園である。
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2007/4/17


浜離宮庭園 Hamanorikyuu-teien Hama Rikyu Garden

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 浜離宮庭園(浜離宮恩賜庭園、浜離宮公園)は、東京都中央区にある都立公園であり、国の名勝・史跡に指定されている。
 承応三(1654)年、松平綱重によってこの地に別邸が建てられ、後に将軍家の別邸となり、以後何度も改修され、明治維新を経て皇室の離宮となり、その後東京都に下賜され公園となった。
 浜離宮は、潮入の池と二つの鴨場をもつ江戸時代の代表的な大名庭園である。
 入口から左手すぐの「三百年の松」は都内最大の黒松で、太い枝が低く張り出し、威風堂々とした様は圧巻である。
 その先には、春には30万本の菜の花が、秋には一面にコスモスが咲き誇る花畑と、ボタン園がある。桜の木も多く、春はライトアップされ、夜間まで開園する。
 浜離宮庭園は、美しい自然を誇る都会のオアシスといえる。
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2007/4/4


豊島石灯籠 Teshima-ishidourou 

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 香川県小豆島の西にある豊島(てしま)で採掘される、「豊島石」で作る灯籠。県の伝統工芸品に指定されている。
 豊島では明治時代頃から、島の中心にある「壇山(だんやま)」という山から、「角礫凝灰石」という、やわらかく加工しやすい石が採掘されていた。その石は主に灯籠や石彫刻に利用され、全国各地から注文があったという。京都の桂離宮、二条城、大阪の住吉大社などの石灯籠は、これら豊島石灯篭である。
 加工がたやすいこともあり、今でも石職人たちがノミを使った手作業で加工を施し、さまざまな石灯籠が作られている。また、最近では一般家庭用の、灯篭や石の彫刻の注文もあり、日本の石文化を今に伝える逸品として重宝されている。
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2007/3/22


旧日向別邸 Kyuu-hyuga-bettei 

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 旧日向(きゅうひゅうが)別邸は、静岡県の相模湾を望む高台に建っている。世界的に有名な建築家ブルーノ・タウトの手による設計の離れは、日本で唯一現存する貴重な建物である。
 もともとは、貿易で財をなした大富豪、日向利兵衛が昭和九年に建てた別邸。日向氏の死後、長い間民間企業の保養所として利用されていたという。
 ブルーノ・タウト氏が離れを設計したのは昭和十一年。日本の風土と文化を愛したブルーノ・タウトは、日本の伝統的な建物や風土を意識して設計、竹や桐をふんだんに使用し、和と洋の融合した見事な意匠を造り上げた。階段の欄干は、桂の離宮をモチーフにしているという。
 平成十七年より一般公開もしている。旧日向別邸は、熱海の誇る貴重な文化遺産である。
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2007/3/13


桜本坊 Sakuramoto-bou Sakuramotobo Temple

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 桜本坊(さくらもとぼう)は、奈良県吉野郡吉野町吉野山にある修験道の寺である。本尊は、役行者神変大菩薩、釈迦如来坐像、地蔵菩薩坐像。
 創建は7世紀後半、役行者の高弟日雄角乗によるものとされる。
 名前は、ここ吉野の地で大海人の皇子(天武天皇)が、咲き誇る桜の夢を見て発願したという事からついた。
 もともとは日雄離宮といい、金峯寺屈指の塔頭寺院であった。金峯山修験本宗とは、金峯山寺と東南院、桜本坊の三寺で成り立っているものである。
 桜本坊は、明治以前では吉野で一番大きな護持院であったとされている。また、山伏文化の殿堂と言えるほど、宝物が多く残っている事で有名である。
 桜本坊は、明治期に1度廃寺となりながらも、力強く復興した長い歴史を持つ寺である。
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2007/2/27


橘寺 Tachibana-dera Tachibanadera Temple

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 橘寺は奈良県高市郡明日香村に位置する天台宗の寺院。正しくは「仏頭山上宮皇院菩提寺(ぶっとうざんじょうぐうおういんぼだいじ)」と称する。
 垂仁天皇の命により田道間守(たじまもり)が、常世の国から持ち帰った不老不死の果実である橘を植えたことから、橘寺の名が付いたとされる。
 開基は聖徳太子。元は用明天皇の離宮、橘宮であり、聖徳太子誕生の地。聖徳太子創建七ヶ寺の一つでもある。
 本尊は聖徳太子勝鬘経講讃像、聖徳太子三十五歳の像とされ、太子像では日本最古のもの。
 境内には背中合わせに善悪の二面を刻んだ「二面石」が安置され、奈良の奇石の一つとして知られる。
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