NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/9/10


一夜嶽牛突大会 Ichigayadake-ushitsuki-taikai 

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 日本の闘牛は全国五地域でしか行われていない。そのひとつ、島根県隠岐の島町に伝わる闘牛は「牛突き(うしづき)」と呼ばれる。島では年に三回の本大会が開催されるが、その千秋楽を飾るのが毎年一〇月一三日の「一夜嶽(いちやだけ)牛突大会」である。隠岐闘牛独特の絢爛豪華な土俵入りが披露される。
 隠岐の牛突きは、承久(じょうきゅう)の乱に敗れ隠岐に流された後鳥羽(ごとば)上皇を、島民が慰めるために始めたのが起源とされ、七百年以上の歴史を持つ。隠岐では、子牛のときから角を内側へ矯正するなどして格闘専用に飼育される。また、牛に綱を付けて突かせるのが特徴で、上皇の御前で突かせたため、万一に備えて綱を付けた名残といわれている。
 勝敗を握る綱取り男の厳しいかけ声に、八百キロ~一トンもの巨体がぶつかり合う。鋭く削った角で突き合い、血を流しながらの勝負が数十分、時には一時間にも及ぶ。一方の牛が悲鳴を上げて逃げ出した瞬間に勝敗が決する。
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2008/3/7


岩船寺 三重塔 Gansen-ji Sanjuu-no-tou 

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 アジサイの名所として知られる岩船寺(がんせんじ)は、京都府の南端、奈良県境に近い当尾(とうの)の里にある。天平元(729)年、聖武天皇の勅願により行基(ぎょうき)が建立したと伝わる。
 その後、大同元(806)年に空海の甥・智泉(ちせん)が、密教儀式の道場として報恩院を建立。弘仁四(813)年には嵯峨天皇の皇后が、皇子(後の仁明天皇)誕生を感謝して堂塔伽藍を整え、岩船寺と称するようになった。
 最盛期にはかなりの規模を誇る寺院であったが、承久の変により大半が焼失。現在は本堂と三重の塔を残すのみである。
 山門のほぼ正面奥に三重塔がそびえている。塔は室町時代の嘉吉二(1442)年の建立で、高さ20・5m。本瓦葺で、国の重要文化財に指定されている。初層の内部には来迎柱が立てられ、本尊を安置する須弥壇(しゅみだん)と来迎壁が設けられている。塔の隅垂木(すみたるき)を支える木彫りの天邪鬼(あまのじゃく)がかわいらしい。
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2007/9/25


御火葬塚 Go-kasou-zuka Gokasozuka (Cremation Mound)

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 御火葬塚(ごかそうづか)は、島根県隠岐郡海士町中里にある、後鳥羽上皇を火葬にして埋葬した場所である。
 鎌倉時代の承久三(1221)年に、承久の乱にて鎌倉幕府に対して討幕の兵を挙げて敗れた後鳥羽上皇は、隠岐に配流されて海士の源福寺で18年を過ごし、延応元(1239)年、六〇歳で失意のうちに他界した。
 後鳥羽上皇の遺体は源福寺の勝田山で荼毘に付され、遺骨は一部京都に持ち帰られ、他は源福寺北部の丘陵であるこの地に埋葬されて廟殿が建てられた。その山稜が、現在の御火葬塚である。
 隣接地には後鳥羽上皇を祭神として祀る隠岐神社が建っており、神社前の歴史民俗資料館には上皇にちなむ品々が陳列され、承久の変の歴史に触れる事が出来る。
 御火葬塚は、鎌倉の昔が偲ばれる史跡である。
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2007/5/14


郡上八幡城 Gujohachiman-jo 

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 郡上踊りでも知られる郡上の城は、鎌倉時代の承久三(1221)年、承久の乱の戦功で東胤行が美濃国山田荘の地頭となり、土着したのが起源とされている。永禄二(1559)年東常慶が城主であった時、遠藤盛数に東殿山城を攻められ落城したといわれる。
 東殿山城に入った遠藤盛数は、そこがあまりにも険峻であった為、新しく八幡山に城を築いた。その後、幾多の城主が変わり増築が行われた。城は東殿山南端、標高350メートルの八幡山山頂に天守曲輪を置き、桜の丸・松の丸の郭、山麓に二の丸を構えている。
 青山氏の代に二の丸が本丸とされ、御殿・政庁を置いた。明治維新を迎えた後、天守台・桜の丸・松の丸の石垣はほぼ完全な形で残された。現在の山頂にある模凝天守と隅櫓は昭和八(1933)年に建てられたもので、大垣城に模して作られている。
 八幡山からの景色は、眼前に東殿山が眺められ、往事の戦いのほどが偲ばれる。
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2007/5/8


龍河洞 Ryugatou Ryuga-do Cave

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 高知県三宝山の中腹にある石灰洞穴。秋芳洞、龍泉洞と並んで日本三大鍾乳洞ともいわれる。
 西本洞,中央洞,東本洞の三洞を中心に24本の支洞が複雑に連接した迷宮型の鍾乳洞である。その総延長は、4000mにも達する国内屈指の大鍾乳洞で、この内、1000mが観光洞として公開されている。
 洞の入口には竜王神社があるが、ここは、約770年前の承久の乱(1221年)の後、土佐に配流となった土御門上皇が、この鍾乳洞に入った時、一匹の錦の小蛇が現れたので、その霊を祭ったという伝説がある。
 三宝山の南を流れる谷川が、約60mの落差で洞穴に流れ込み、 洞内では、その流れがつくる大小20の滝が照明に照らし出されている。ここでは、弥生時代の遺跡も発見され、2000年前の弥生式土器(神の壺)も有名である。
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2007/4/24


菩提所観音寺 Bodaisho-kannonji 

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 菩提所観音寺は、広島県広島市安佐北区にある史跡である。
 承久三(1221)年、承久の変で勝利を収めた鎌倉幕府により、戦功のあった熊谷氏は安芸国三入荘の地頭に任ぜられ、この地に城を築いて移り住んできた。
 その後室町期に入ってから、戦略的により優れた高松山に本拠を進め、麓に屋敷を構えた。
 熊谷氏は、屋敷と根之谷川を挟んで向かい合う位置に、一族の菩提所・正法山観音寺を営んだ。
 菩提所観音寺は大寺院であったが、熊谷氏が広島城下に移ると次第に寂れて行った。
 現在では、二間(約3.6m)四方の小さな観音堂と井戸を残すのみであり、堂内には熊谷氏の紋を刻んだ須弥壇が佇んでいる。
 菩提所観音寺跡は、熊谷氏時代の繁栄と歴史の移り変わりが偲ばれる、静かな史跡である。
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2007/1/7


牛突き Ushitsuki Bullfighting in Shimane

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 七八〇年という日本最古の歴史を持つ隠岐の牛突き。1221年の承久の乱の際に隠岐へ流された後鳥羽上皇を慰める為に行われたことが起源とされる。
 かつては島根県・島根半島全域で行われていた牛突きも、今では一部で残っているのみ。8月15日に行われる夏の本場所では、引き分けなしの一本勝負ということもあり、島民の夏場所に賭ける思いは計り知れない。どちらかの牛が逃出すまで、時には一時間近くも勝負が続く。決着後の明暗ははっきりしており、勝った牛のまわりでは男衆たちが牛の背に乗ったり歓喜の声で叫ぶ中、敗者は静かに土俵を去る。
 牛突きは神への奉納として、今もこの島に根付いている。この伝統を守るべく隠岐の若者達は後継者会を発足させ、子供達を小学校3、4年の頃から修行させている。
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