NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/9/11


楽焼 Raku-yaki 

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 楽焼(らくやき)は日本の伝統的な陶器の一種で、手捏ね(てづくね)と呼ばれる方法で轆轤(ろくろ)を使わず手とへらだけで形を作り、釉薬(ゆうやく)を施して焼き上げた陶器をいう。狭義には樂家の歴代当主による作品を示し、楽茶碗などとも呼ばれる。広義には同様の手法を用いて作った陶磁器全体を指す。
 一六世紀後半、瓦職人だった長次郎が、茶の湯を完成させた千利休の指導により、聚楽第を建造する際に使用された土を使って焼いた聚楽焼(じゅらくやき)が始まりとされる。その際、聚楽第の「樂」の一字にちなんで楽焼と名付けられ、長次郎を祖とする樂家の姓にもなった。正統な樂家の楽焼を本窯、傍流の楽焼を脇窯という。
 現在の樂家は京都御所の西方にあり、犬夜来と出格子を配した伝統的な京都町家のしっとりとしたたたずまいを残している。玄関石畳の奥に本阿弥光悦筆と伝えられる「樂焼おちゃわん屋」と書かれた暖簾がかけられ、母屋の奥の窯場と工房では、長次郎時代と変わらぬ伝統技法で作品が作られている。
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2008/7/23


大堀相馬焼 炭化たたらコーヒーカップ&ソーサー Ooborisoumayaki Tankatatara-kouhikappu&sousaa 

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 江戸時代初期に始められた大堀相馬焼(おおぼりそうまやき)。相馬藩が保護・育成し、300年の伝統を誇る。
 ひび割れが模様のように器全体をおおっている事から「青ひび」と呼ばれており、このひび割れ模様が、作品を親しみやすいものにしている。
 また、ろくろによる成形の段階で、外側と内側を作る二重焼によって、中の飲み物が冷めにくくなっている。
 炭化たたらコーヒーカップ&ソーサーは、こげ茶色に白い釉薬を掛け、小さい花を付けた、落ち着きのある、可愛らしいイメージの品物である。
 ソーサーはまん丸でなくたまご形で、カップに合わせたほど良い大きさと質感を持っている。
 大堀相馬焼・炭化たたらコーヒーカップ&ソーサーは、素朴な味わいのある手の込んだ品である。
 
サイズは
カップ  径77×高80mm
ソーサー 140×115mm
Magic Garden
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2008/6/10


母里焼 Mori-yaki 

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 母里焼(もりやき)は、島根県安来市伯太町東母里で伝えらる工芸品である。また、県の伝統工芸品に指定されている。
 幕末の弘化元(1844)年に、松江藩の分藩・母里藩の産業・文化事業として始められた。
 嘉永三(1850)年、豊岡に窯が移され豊岡焼といわれた。この豊岡焼から分れて明治二二(1889)年、稲垣茂平(いながきもへい)、利市父子(りいちふし)が登り窯を築いたのが現在の母里焼の始まりとされる。
 特徴は色の豊富さで代々伝わる色は、合計すると約30種類もの釉薬を使用する。
 粘土から松割木まで、全工程を全て手作業で行うため、窯出しは年に1回のみであり、非常に貴重なものとなっている。
 母里焼は今なお、捏鉢(つくねはち)や漬物鉢・食器類などの日用品を焼成している民芸陶器である。
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楽山焼 Rakuzan-yaki 

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 楽山焼(らくざんやき)は、島根県松江市で伝えられる工芸品である。県の伝統工芸品に指定されている。
 延宝五(1677)年、萩の陶工である倉崎権兵衛(くらざきごんべえ)が、松江藩の御用窯として松江市東郊の御立山(おたてやま)に築窯したのがはじまりとされる。
 一時期製造が中断されていたが、享和元(1801)年、松江藩主・松平不昧(まつだいらふまい)の命により再興された。
 御立山焼(おたてやまやき)、御山焼(おやまやき)とも呼ばれたが、明治の頃から楽山焼という呼ばれ方が定着した。
 作品は、抹茶碗や水差しといった茶道具がほとんどを占めている。刷毛目(はけめ)と、伊羅保写し(いらほうつし)といわれる技法が特徴で、器は同名の釉薬を使って仕上げられた、落ち着きのある淡い山吹色をしている。
 楽山焼は、御用窯として土灰(いしばい)づくりと調合に、品位が感じられる伝統工芸品である。
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2008/4/15


瓦 Kawara Kawara Roofing Tile

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 瓦(かわら)は、粘土を練って成形、焼成した屋根に葺く陶器製建材である。
 瓦が歴史上、初めて登場するのは約二千八百年前の中国といわれており、日本には崇峻天皇元(588)年、百済から仏教と共に伝来し、飛鳥寺造営の際、初めて使用されたとされる。
 当時は瓦葺が許された建物は寺院のみであったが、奈良時代に入るとその他の建物でも使用されるようになる。
 江戸時代には新しい瓦の構造が発明され、また、火事対策の耐火建築用品として瓦の使用が奨励されたこともあり、一般に広く普及していくこととなった。
 日本では大きく分けて釉薬を使った「釉薬瓦」と、燻して銀色の炭素膜を形成した「いぶし瓦」に二分されるが、形状については多種多様なものが存在しており、分類すると千を越える種類が存在している。
 現在では、愛知の三州瓦、兵庫の淡路瓦、島根の石州瓦が三大産地として知られており、日本家屋における屋根の代表格の座を支え続けている。
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2008/4/11


丸透かし入カップ(辰砂赤) Marusukashi-iri-kappu(Shinsha-aka) 

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 西日本では弥生時代のおわり頃から赤色の顔料として辰砂(しんしゃ)が多く使われるようになり、古墳時代はじめには辰砂が古墳の石室に多く振りまかれるようになったという。
 陶芸で用いられる辰砂釉は、美しい赤色を発色する釉薬で、水銀ではなく銅を含んだ釉薬を用い、還元焼成したもの。
 この、丸透かし入カップは、辰砂の赤が美しいオリジナルの手造りカップである。
 透かし柄が入っており、とても素敵な仕上がりとなっている。
 素朴で麗しい辰砂の赤と、丸く柔らかなカップの形が解け合い、独特の魅力を生んでいる。
 丸透かし入カップは、手造りの味わいが器の姿にも現れている、美しいカップである。
 
サイズは
高さ9.5cm
直径6cm
底径5cm
Magic Garden
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2008/4/4


平清水焼 Hirashimizu-yaki 

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 平清水焼(ひらしみずやき)は山形市平清水で焼かれる陶磁器をいう。江戸後期の文化年間、地主の丹羽治左衛門が茨城から陶工の小野藤次平を招き、地元千歳山の土を使って焼かせたのが始まりとされる。
 原土の性質を活かしたものが多く、美しさだけでなく、温もりと優しさのある作品に仕上がっている。現在は六つの窯元が伝統を守り続け、また、それぞれに個性を発揮している。
 平吉窯(へいきちがま)は、従来の釉調を一段と高め研究に余念がない。天沢窯(てんたくがま)は、平清水焼の伝統技を主力に自然青地なども手がける。七右エ門窯(しちえもんがま)は、豊富な種類の釉薬に力を入れる一方、ほとんど釉掛けをしない作品も手がける。青龍窯(せいりゅうがま)は、千歳山の原土を生かした「梨青瓷(なしせいじ)」発祥の窯元として知られる。文右エ門窯(ぶんえもんかま)は、土味を生かした素朴な風情のある作風が魅力。雷神窯(らいじんがま)は、個性豊かな工夫をこらした芸術性の高い作品が目を引く。
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2008/2/25


近藤悠三(人間国宝) KondouYuuzou 

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 こんどう・ゆうぞう。明治三五(1902)年二月八日~昭和六〇(1985)年二月二五日。日本の陶芸家で、陶磁器染付の最高峰と称される。
 京都生まれ。一二歳のときに京都市立陶磁器試験場付属伝習所に入り、卒業後は同試験場で助手として勤務した。一九歳の頃、イギリスから帰国して大和に窯を構えた富本憲吉の助手として師事。 素地や釉薬(ゆうやく)などの技法だけでなく、製作に対する心構えについても修行を積んだ。三年後に独立、生家近くに構えた窯でひたすら研究を積み重ね、技を磨いた。五四歳で岐阜県多治見市で、美濃焼の一種である志野焼を研究。以降は染付の製作に専念した。
 「つけたて」と「ぼかし」を基調とした筆遣いによって濃淡を表し、ザクロや梅などをモチーフとした絵画的な作品を生み出した。さらにその後、赤絵や金彩の技法を用いるようになり、華麗で品のよい独自の作風を確立した。
 昭和五二(1977)年、重要無形文化財「染付」の保持者(人間国宝)に認定された。
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