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2008/1/8


旧取手宿本陣 Kyu-toridejuku-honjin Old Toridejuku Honjin

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 貞享四(1687)年に、水戸街道を通る大名などが利用する宿である本陣として取手宿の名主である染野家が選ばれた。それが旧取手宿本陣(きゅうとりでじゅくほんじん)である。
 寛政六(1794)年に一度焼失、翌年に立て直されたものが現在の母屋である。
 寄棟茅葺、桁行19m、梁間13・3mの大型の民家だが、式台玄関の上部に入母屋破風を造っており、重厚感を出している。
 内部は、宿泊を行う本陣部分と住宅部分が分かれており、三間続きの間や、書院造りの上段の間等があり、風格を重んじた造りとなっている。
 敷地内には、第9代水戸藩主徳川斉昭が天保一一(1840)年に水戸に戻る途中の利根川での船で詠んだ唄「指して行 さほのとりての渡し舟 おもふかたへは とくつきにけり」と、石に刻んだ歌碑が残っている。この歌碑は、後に江戸屋敷から届けられたもので、水戸徳川家と染野家のゆかりを示している。
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八雲本陣 Yagumo-honjin Yagumo Honjin

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 八雲本陣(やぐもほんじん)とは、出雲地方屈指の地主、木幡家(こわたけ)が代々守ってきた本陣宿で、江戸時代に松江藩主が領土内を見回る際に利用されていた。
 木幡家は酒造業を営みながらも、庄屋をまとめる下郡役も務めたため、名家と呼ばれている。
 敷地一二〇〇坪、建坪八〇〇坪の大きな建物は、享保一八(1733)年に建てられ、当時、旅館として営業されていたが昭和四四年に重要文化財として指定された。
 近年まで料理旅館として営業しており、室内の調度品もすばらしいものが多い。
 八雲本陣は昔の人々の生活が身近に感じられるような、心やすらげる場所である。
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落合の石畳 Ochiai-no-Ishidatami Stone-paved Road in Ochiai

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 落合の石畳(おちあいのいしだたみ)は岐阜県中津川市落合に残る石畳である。
 江戸時代の五街道、中山道(なかせんどう)の落合十曲峠から馬籠宿にかけては急峻な山道の為、通行が困難であったことから石畳を敷き、整備が行われていた。文久元(1861)年、皇女和宮が降嫁した際改修したとの記録が残る。
 明治時代に入り、一部が工事のために剥がされ、一部は使用されなくなり放置されたため、旧状を留めたのは一部となったが、昭和六三(1988)年に修復工事が行われ、現在の840メートルの道が復元された。
 近隣には中山道の史跡である落合宿の本陣や大釜、島崎藤村の筆による「是より北木曽路」などが残り、古道の記憶を今に伝えている。
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2007/12/14


泰平寺 Taihei-ji 

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 鹿児島県薩摩川内市にある泰平寺(たいへいじ)は和銅元(708)年、元明天皇の勅願寺として天下泰平を祈願して創建された。当初から七堂と堀を備える大伽藍であった。
 戦国期には豊臣秀吉の九州平定時の本陣となり、秀吉と島津氏の和睦会の場となる。その際住持である宥印法印(ゆういんほういん)が和睦の斡旋に尽力したという。現在も宥印法印の墓石の横に記念の和睦石が残っている。 
 泰平寺を舞台とした民話「塩大黒」も残っている。この地方で塩が手に入らなかった頃、お坊さんが大黒天像に愚痴をこぼすと、大黒天像が本堂から消え甑島(こしきじま)から塩をどっさり持ってきたという話だ。
 寺は明治の廃仏毀釈にて取り壊され、大正時代に再建された。創建当初からの秘仏、薬師寺如来は行方不明となるが、大黒天像は難を逃れる事ができた。大黒天像は黒く煤けた木製の立像で、愛嬌のある柔和な笑みを浮かべている。
 平成二〇(2008)年は創建一三〇〇年にあたり、記念大法要が執行される。
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2007/11/28


宝積寺 三重塔 Housyaku-ji Sanjuu-no-tou 

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 京都郊外に「宝寺」と呼ばれる寺院がある。宝積寺(ほうしゃくじ)だ。聖武天皇が皇子だった時、夢で竜神から授けられたという「打出」と「小槌」を祀ることから、いつしかこれが通称となった。宝積寺では、打出は弁財天の、小槌は大黒天のものと伝えられている。
 奈良時代の神亀元(724)年、聖武天皇の勅願で行基が開基したと伝わり、寺が建つ天王山は古くからの要衝であった。本能寺の変で信長を討った明智光秀と羽柴秀吉が衝突した「山崎の戦い」の舞台となり、岡山から急きょ引き返してきた秀吉はここに本陣を敷いた。
 境内には文化財が多く、十一面観音菩薩立像、三重塔などが国の重要文化財に指定されている。
 三重塔は、秀吉が山崎の戦いに勝利した記念にわずか一晩で建立したといわれ、「一夜造りの塔」とも呼ばれている。高さ19・5m、本瓦葺で、塔の内部には四天柱と来迎壁があり、須弥壇(しゅみだん)が設けられ大日如来が安置されている。
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2007/11/14


安曇野 等々力家 Azumino Todoroki-ke 

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 安曇野の等々力家(とどろきけ)は、長野県安曇野市穂高等々力にある屋敷である。町の文化財に指定されている。
 等々力家は、室町時代から地方豪族の仁科氏に長く仕えてきた旧家とされる。
 等々力家の屋敷は、江戸時代、松本藩主の御本陣であり、鮭や鴨の狩猟の際の休憩所として使われていたものである。
 穂高の「吉祥山東光寺」のはす向かいにあり、壮大な長屋門をくぐると、等々力家所蔵の駕籠(かご)や宝物を展示する大きなお屋敷の姿が現れる。
 本屋の奥には殿様座敷などがあり、庭は桃山中期の流れを汲む江戸時代中期のものといわれており、大変美しい。
 安曇野の等々力家は、藩主が狩猟の際に休憩した茶屋本陣であり、貴重な建築物である。
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2007/8/3


御陣場山 Gojinba-yama The Ruins of Gojinbayama Encampment

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 御陣場山(ごじんばやま)は、宮城県登米市迫町佐沼にある本陣跡である。
 天正一九(1591)年、伊達政宗は豊臣秀吉より葛西・大崎一揆(かさい・おおさきいっき)勢の討伐を命ぜられ、一揆勢に囲まれた領主の木村吉清・清久(きむらよしきよ・きよひさ)親子が籠もる佐沼城へと進軍を開始した。
 葛西大崎一揆とは、小田原に参陣しなかった事を理由に、豊臣秀吉の奥州仕置により領地を失った豪族の反乱である。
 この戦いの時に、政宗がこの地に陣地を構えたので、この名前がついたと伝わっている。
 結局、一揆は正宗により鎮圧され、木村親子は救出された。
 現在は、記念碑が建てられていおり、御廟山(ごびょうやま)からも眺める事ができる。
 御陣場山は、伊達政宗ゆかりの戦国の昔を偲ぶ史跡である。
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2007/7/27


天皇寺 Tennou-ji 

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 天皇寺(てんのうじ)は、宮城県黒川郡大和町吉岡にある臨済宗の寺である。
 元和二(1616)年、天皇寺は、吉岡城の完成とともに鶴巣下草から現在地に移された。
 初代吉岡城主は伊達政宗の三男宗清で、三万石の城下町吉岡を開府。その養母が飯坂の局である。
 吉岡の礎を築いた宗清は35歳という若さで病死し、また養母として政宗に託された飯坂の局も24年間を大和町で宗清と共に生きた末、役目を終えたかのように宗清と同年に亡くなったという。
 境内には、伊達宗清の墓と、飯坂の局の供養塔である五輪の塔が建っている。
 墓地には大和田佐渡以下七名の殖死者や、吉岡宿本陣の千葉家本家・分家の墓も並んでいる。
 天皇寺は、伊達宗清とゆかりの深い歴史ある寺である。
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