NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/7/25


妙喜庵 待庵(国宝) Myoukian Taian(Kokuhou) 

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 妙喜庵・待庵(みょうきあん・たいあん)は、京都府乙訓郡大山崎町にある臨済宗東福寺派・豊興山妙喜庵境内に静かに佇ずむ茶室である。
 天正九(1582)年の羽柴秀吉と明智光秀による「山崎の合戦」の際、秀吉が山崎の地に陣を張った折、茶人として知られる千利休を招いて陣中に作らせた茶室が、現在地に移築されたと伝えられている。
 愛知県犬山市の如庵(じょあん)と京都府の大徳寺龍光院にある密庵(みったん)にならび、国宝に指定されている三茶室の一つであり、利休作とされる茶室としては国内唯一のものとされる。
 また、茶室建造物としては日本最古であり、数奇屋建築としての原型かつにじり口を設けた茶室の始まりでもある。
 この待庵が最初といわれる茶室に窓を設けたことなど、利休独特の構想が随所にちりばめられており、窓からさしこむ日差しは、黒ずんだ荒壁仕上げの壁に覆われた重厚な室内をよりいっそう趣ある空間に照らし出している。
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2008/7/24


最上稲荷(妙教寺) Saijou-inari(Myooukyou-ji) 

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 最上稲荷妙教寺(さいじょういなりみょうきょうじ)は岡山県岡山市にある寺であるが、日本三大稲荷の一つでもある。日蓮宗系の独立宗派である最上稲荷教の総本山になっており、明治の神仏分離令の折にも神仏習合を許されたお寺である。
 創建は岡山出身の僧で天平勝宝四(752)年に孝謙天皇のご病気を祈祷で快癒したとされる報恩大師(ほうおんたいし)といわれている。当初は龍王山神宮寺と呼ばれていたが、豊臣秀吉の備中攻めの折に焼失、慶長時代に日円上人が再興、その際に稲荷山妙教寺と改められた。
 寺前の参道には神仏習合を思い起こさせるように鳥居が立っているが、山門にいたっては薬医門である。石段を登り山上に行くと巨大な本堂が建てられている。さらに上に上がると報恩大師が修行をしたといわれる八畳岩や旧の本堂跡があり、周りには多くのお稲荷さんが祀られている。本堂跡付近では他の寺にはない神秘的な雰囲気が漂っている。不思議な感覚を呼ぶお寺である。
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2008/7/22


大判 Ooban 

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 大判(おおばん)とは、一六世紀以降、日本で生産された金貨の一種で、叩いて薄く延ばし広げた延金(のしきん)の中でも、楕円形で特に大型のものをいう。
 金貨として規格化されたのは、天正一六(1588)年に秀吉の命で製造したものが始まりとされ、以降、文久二(1862)年まで製造が続けられた。
 その重量は約165グラムでほぼ一貫しているが、純金含有量を示す金の品位は製作された時代により変化している。
 表面には、上下左右に五三桐(ごさんのきり)と呼ばれる刻印が四つと「拾両後藤」の文字と製造を担った京の金工を家業とする後藤家当主の花押が墨書きされ、裏には六つの刻印が刻まれている。
 日常取引用ではなく、恩賞など特殊な目的に用いられることが多かったため、基本的には小判やその他の貨幣のように公定価格がなく、品位を参考に独自の大判相場があったとされる。
 その種類は、規格化されたものとしては秀吉の天正大判から、万延元年の万廷大判まで、十一種類が確認されている。
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2008/7/9


津観音寺 Tsukannon-ji 

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 津観音寺(つかんのんじ)は、三重県津市にある真言宗の古刹である。
 正式には「恵日山観音寺」と称し、地元の人々からは「津の観音さん」として親しまれている。
 和銅二(709)年の開山で、御本尊は阿漕浦の漁夫の網によって出現されたという、聖観世音菩薩で秘仏となっている。
 浅草と大須に並び、日本三観音の一つに数えられており、全国の人々から海上安全や五穀豊穣、所願成就の観音様として深く信仰を集めている。
 時々の権力者達からの庇護も篤く、室町時代には将軍足利義教が勅命を奉じて三重塔を建立し、江戸時代には歴代将軍家や津藩主藤堂家の祈願所として特別の加護を受けていた。
 太平洋戦争時は空襲で伽藍の多くが焼失するも戦後に復興、幸いにも難を逃れた「弘法大師画像」や「豊臣秀吉朱印状」、「千利休書状」など数多くの文化財を有する名刹としても知られる。
 平成一三(2001)年には県内唯一の五重塔が完成し、その隆盛を今も放ち続けている。
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2008/7/1


白磁透かし彫り Hakuji-sukashibori 

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 「白磁透かし彫り(はくじすかしぼり)」とは、長崎県指定無形文化財で、三川内焼(みかわちやき)のひとつに数えられている。
 その昔、豊臣秀吉が起こした朝鮮の役を別名「焼物戦争」といい、各地の大名は秀吉の命により、朝鮮の陶工を連れ帰った。平戸藩主・松浦鎮信(まつうらしげのぶ)は慶長三(1598)年、陶工・巨関(こせき)を連れ帰り、巨関が藩主の命で平戸・中野に最初の窯入れをしたのが三川内焼の始まりである。
 伝統ある三川内焼には、唐子絵に代表される呉須(ごす)による染付、薄手白磁の卵殻手などが挙げられるが、特に特に高度な技術と芸術性に富んだ作品が、精巧緻密な白磁透し彫りである。玉泉(ぎょくせん)製陶の第一四代の福本正則氏は、先代・福本数市氏に師事し、三川内焼の中でも「白磁透かし彫り」の秘法を伝授された。
 玉泉窯の中で代表的な作品が「香炉」である。数ミリ間隔で無数に開けられた亀甲型の穴から明かりが灯される時、光の美しさと陶磁器の白さが重なり、優しい姿が写し出される。
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2008/6/30


小牧山城 Komakiyama-jou 

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 小牧山城(こまきやまじょう)は、愛知県小牧市の市街地西に位置する、標高約八六メートルの小牧山にある。
 桶狭間の合戦ののち、尾張平野の中に孤立した丘陵と、その麓を利用し、永禄六(1563)年に織田信長が築いた平山城である。
 信長の死後、天正一二(1584)年「小牧・長久手の戦い」において、豊臣秀吉と戦った織田信雄(のぶかつ)・徳川家康連合軍が大規模な改修を施し陣城とした。
 その後、小牧山は尾張藩によって入山が禁じられた。明治以後もこの規則は守られ、明治二二(1889)年に尾張徳川家に払い下げられた。
 昭和五(1930)年に尾張徳川家の徳川義親(とくがわよしちか)から小牧市に寄贈されて以後、自然公園として整備された。
 現在は城址公園となり、削平地や復元された空堀、土塁、旧虎口跡などがある。また山頂に展望台がわりの模擬天守が建っており、内部は歴史館となっている。
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越中 安田城 Eccyu Yasuda-jou 

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 安田城(やすだじょう)は富山県富山市にある城址である。
 近隣の井田川の水を引き入れた広い堀が巡らされ、水堀に浮かぶ浮城のようである。本丸、二の丸、右郭で構成された戦国時代の平城で、城の建物は今はないが、発掘調査を経てその外形は現在も良い状態で残されている。
 安田城が創建された年は不明であるが、天正元年(1573)年の資料にはすでに存在している。
 天正一三(1585)年、豊臣秀吉が富山城主佐々成政を征伐した際、秀吉側の前田利家の家臣がこの城で陣を取った。これを機会にのちに前田利家やその家臣が居城としたが、一国一城令が発令される頃に廃城となった。
 昭和五六(1981)年に国指定史跡となっている。
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2008/6/26


徳島城 Tokushima-jou 

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 徳島城は徳島市にかつてあった城であり、あの阿波踊りの誕生のきっかけになった城である。
 天正一四(1586)年、豊臣秀吉の四国平定で功績のあった蜂須賀家政が小早川隆景や長宗我部元親らの援助により一年半で築城した城である。家政は築城に従事した大工や城下町の人々に酒を振舞い、武士の同席を禁じたので、人々は歓喜し遠慮なく二日間踊りあかしたという、これが、阿波踊りの始まりと言われている。
 蜂須賀家は明治の廃藩置県までこの地を治めていた。明治に入ると城は解体され、鷲の門だけは残されたが、太平洋戦争の空襲でそれも焼失してしまった。
 現在、徳島城跡は徳島中央公園となり、博物館が建っている。博物館の中には徳島城の模型が展示されている。また、平成元年には徳島市制百周年を記念して鷲の門も復元された。
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