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2008/3/10


イタヤ細工 Itaya-zaiku 

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 イタヤ細工は、寛政年間(1790年頃)に角館の農村部で始まった手仕事で、生活の中から生まれた。イタヤカエデの若木の幹を帯状に裂いて編み、穀物の殻などを振って吹き飛ばす箕(み)や、カッコベと呼ばれる腰かごなどの農具を中心に作られてきた。
 現在はかご類、花器、バッグ、イタヤ馬、イタヤ狐などの民芸品が多く作られ、秋田県の伝統的工芸品に指定されている。
 細工は、原木から細い帯状の材料を得る工程と、その材料を編む工程とに分けられるが、そのほとんどが手作業で行われる。イタヤカエデの持つ木肌の素朴さと相まって、その深い味わいに人気がある。
 イタヤ馬とイタヤ狐は郷土玩具として注目されている。イタヤ馬は、馬が走っている姿をモチーフにしたもので、頭を左に向けた縁起の良い「左馬」という形に編まれる。一方のイタヤ狐は、原木をナイフ一本でキツネの立ち姿に加工したもので、イタヤカエデの幹の白さと繊維の緻密さがよく分かる。
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2008/3/7


崋山神社 Kazan-jinja Kazan Shrine

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 愛知県田原市にある崋山神社(かざんじんじゃ)は、田原藩家老であった渡辺崋山の遺徳をしのび、田原城の出丸跡に建てられた。
 崋山没後百年を期に崋山神社建設の話が出たが、第二次世界大戦中だったため建設は実行できなかった。昭和二一(1946)年、静岡県引佐町井伊ノ谷宮の仮殿を譲ってもらい、出丸跡に建てたのが始まり。現在の建物は昭和三四(1959)年、伊勢湾台風による崩壊のあと再築された。
 学者・画家・政治家として活躍した渡辺崋山は寛政五(1793)年、江戸の田原藩上屋敷で生まれた。八歳の時、若君のお相手として出仕し、一三歳の頃から朱子学や、陽明学を極めたことから、学芸向上にご利益があると言われている。
 毎年、渡辺崋山の命日となる一〇月一一日に大祭が開催される。同じ田原市にある城宝寺で崋山の墓前に参拝したのち、崋山神社で神事が行われる。
 また、この神社の絵馬には、渡辺崋山の肖像が描かれている。
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2008/1/8


旧取手宿本陣 Kyu-toridejuku-honjin Old Toridejuku Honjin

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 貞享四(1687)年に、水戸街道を通る大名などが利用する宿である本陣として取手宿の名主である染野家が選ばれた。それが旧取手宿本陣(きゅうとりでじゅくほんじん)である。
 寛政六(1794)年に一度焼失、翌年に立て直されたものが現在の母屋である。
 寄棟茅葺、桁行19m、梁間13・3mの大型の民家だが、式台玄関の上部に入母屋破風を造っており、重厚感を出している。
 内部は、宿泊を行う本陣部分と住宅部分が分かれており、三間続きの間や、書院造りの上段の間等があり、風格を重んじた造りとなっている。
 敷地内には、第9代水戸藩主徳川斉昭が天保一一(1840)年に水戸に戻る途中の利根川での船で詠んだ唄「指して行 さほのとりての渡し舟 おもふかたへは とくつきにけり」と、石に刻んだ歌碑が残っている。この歌碑は、後に江戸屋敷から届けられたもので、水戸徳川家と染野家のゆかりを示している。
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2007/12/11


青梅 海禅寺 Oume Kaizen-ji 

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 青梅市二俣尾にある海禅寺(かいぜんじ)は、辛垣山(からかいやま)の南麓にある。本尊は釈迦如来で、本山を永平寺と総持寺とする曹洞宗の寺で知られる。
 寛正年間(1460~1465)この地に草庵ができたのが始まりである。当時、奥多摩を支配していた三田氏の菩提寺として、三田綱秀が天文年間(1532~1554)に再興したが、その後三田氏は二俣尾の辛垣城で北條氏照により滅ぼされ、兵火により全山焼失した。その後、天正三(1575)年に復興され勅願所に列せられ、江戸時代には寺領一五石を拝領し、京に末寺を持つほどに栄えた。
 参道の途中に青梅線が走るようになってから、道路わきに慶長一七(1612)年建立の総門が移築された。青梅線の踏切を渡ると、石垣が続いており、季節になると朱色のつつじが斜面を彩る。
 石段の上には、寛政五(1793)年に建てられた山門がある。また本堂は火災により焼失し、平成四(1992)年、復元し再建された。
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奥氷川神社 獅子舞 Oku-hikawa-jinja Shishi-mai 

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 奥氷川神社獅子舞(おくひかわじんじゃししまい)は、埼玉県大宮市にある氷川神社の奥社にあたる奥氷川神社で、毎年八月の第二日曜日の例祭で奉納されている三匹獅子舞である。
 同社の祭礼における中心的行事として古くから行われていたが、いつごろ創始されたのかは不明である。様々な資料から、寛政四(1792)年にはすでに行われていたとされている。
 三匹の獅子はそれぞれ大太夫(おだい)、小太夫(こだい)、女獅子と呼ばれ、大太夫と小太夫は黒、女獅子は金色の頭となっている。舞い手たちはかすり模様に錠形紋をあしらった腰切着に花模様のかるさんを羽織り、牡丹の花を華やかにかざしてささらを鳴らす花笠、唄方や笛方、はやし方を率いて豪快に舞い踊る。
 関東一円に二百二十社あるといわれる氷川神社の奥の院で、大勢の観客に見守られながら繰り広げられる熱演は、獅子舞にこめられた歴史や思いをまさに熱く、今に伝えるものである。
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2007/11/26


大悲願寺 Dai-higan-ji 

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 東京都あきる野市を流れる秋川沿いに佇む古刹。それが大悲願寺(だいひがんじ)である。
 おおよそ千四百年前、全国行脚でこの地に訪れた聖徳太子が草堂を建てたのが起源といわれ、建久二(1191)年に源頼朝の命を受けて、平山季重(すえしげ)が本堂などを建立したとされる。
 境内には、寛政六(1794)年建築といわれる「無畏閣(むいかく)」と呼ばれる観音堂があり、中には国の重要有形文化財に指定されている木造伝阿弥陀三尊像が安置されている。これは年に一度、四月に御開帳が行われている。
 九月中旬から下旬に花をつける白萩も有名で、同寺を訪れた伊達政宗が、その美しさから一株譲ってほしいと、後に書簡で所望した話は有名で、芝居の「千代萩」の元となっているという。
 この時の書簡は今も大事に保管されている。
 立派な山門や本堂、境内に咲く四季折々の花を眺めながら散策をすれば、政宗公が手紙を出してまでほしくなったのも納得の美しさを堪能できるだろう。
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2007/11/20


虫明焼 Mushiage-yaki 

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 虫明焼(むしあげやき)は、岡山県瀬戸内市邑久町に伝わる工芸品である。県の伝統工芸品に指定されている。
 年代は不明だが、海上交通の要であったこの地にもたらされた朝鮮系の焼き物が起源であると考えられている。
 寛政年間(1789~1800)、岡山藩主・池田家家老の伊木忠興が御庭窯として開いた頃に、現在の形が出来上がったという。
 京都の清水焼の流れに、家伝の釉薬による掛け分け、筒書き、絵付け、流し釉(ながしぐすり)など、虫明焼の伝統技法を加えた優雅な焼物である。
 肉厚できめの細かい肌ざわりとやわらかい曲線、緑がかった薄茶色などが、気品のある優しい風合いをつくり出している。
 虫明焼は、洗練された造形美と釉調の美しさが特徴の、伝統工芸品である。
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2007/11/9


佐原 伊能忠敬旧宅 Sawara InouTadataka-kyuutaku 

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 佐原の伊能忠敬旧宅(さわらのいのうただたかきゅうたく)は、千葉県香取市佐原にある建築物である。屋敷内の土蔵も含めて、国の史跡に指定されている。
 伊能忠敬は、隠居後五〇才を過ぎてから江戸に出て幕府天文方高橋至時の門に入り、西洋天文学・西洋数学・天文観測学・暦学等を学び、幕府の命令で五五~七一歳まで、一七年間全国各地を測量し、大日本沿海輿地全図を完成させた。
 旧宅は、伊能忠敬が三〇年余り過ごした言われる家で、商家造りの瓦葺き平屋建て、表の店舗と奥の母屋からなり、店舗は醸造業の倉庫を改造したもので、土間・帳場・居室・台所等が存在する。
 母屋は、寛政五(1793)年、忠敬が四八才の時に自身の設計により作ったものとされる。
 伊能忠敬旧宅は、五〇を過ぎてから新しい道を切り開いた努力家・忠敬の苦労と人柄が偲ばれる建築物である。
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