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2007/10/12


沼田城跡 Numata-jyou-ato Numata Castle Ruins

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 群馬県沼田市に所在。戦国時代の天文元(1532)年、この地方の有力者、沼田十二代の万鬼斎顕泰(ばんきさいあきやす)が築城したと言われる。当時は倉内城と呼ばれた。
 関東へ至る要衝の地であることから、越後の上杉氏や小田原の北条氏、甲斐の武田氏などの戦国大名により目まぐるしい争奪戦が繰り広げられた。
 江戸時代に入ると真田氏の所領となり、慶長二(1597)年から数年かけて、真田信幸により五重の天守閣を建造、二の丸、三の丸などが整備され、近世城郭に改修されたという。
 関東では珍しく石垣が築かれていた沼田城。現在残っている遺構はあまりないが、わずかに残る石垣や堀が当時の面影をしのばせる。春には樹齢400年の古木「御殿桜」が咲き、沼田城の興亡の歴史を静かに語りかけてくるようだ。
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2007/8/29


高鍋城址 Takanabe-jou-shi 

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 高鍋城址(たかなべじょうし)一帯は舞鶴公園として整備され、二の丸表門が公園の正門にあたる。
 元々は財部城(たからべじょう)と呼ばれ、奈良時代に柏木左衛門尉が創築したと伝えられるが定かではなく、斉衡年間(854~56)に宇佐八幡宮の神官であった土持氏が入り、以後室町末期まで六百年にわたり土持氏の居城であった。
 後に高鍋城と改称されるのは、江戸時代の三代藩主秋月種信の頃で、この時大々的に城の拡張と城下町の整備が完成した。
 高鍋城は標高74mの丘陵に築かれ、丘の中腹に本丸、一段下った平地に二の丸、更に下ったところに三の丸を配した縄張りで、丘陵上には三層の櫓が築かれていた。その姿が羽ばたく鶴に似ていることから別名「舞鶴城」とも呼ばれる。
 二の丸跡の石段を上ると、本丸の正門であった長峰門跡を経て本丸跡にでる。政庁と奥御殿があった箇所に本丸政庁跡の標柱が立ち、本丸跡から更に上ると、見事な石垣が部分的に残っている。
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2007/8/10


岩手 桜山神社 Iwate sakurayama-jinjya 

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 岩手県盛岡市内丸にある桜山神社。もともとは盛岡城の三の丸にあり、盛岡藩の総鎮守として篤く信仰された神社である。
 創建は江戸時代の寛延二(1749)年。盛岡藩の8代藩主・南部利視が初代藩主の没後百五十年にあたることから盛岡城内の淡路丸に勧請したのがはじまりだ。
 明治維新の際、明治四(1871)年に廃藩置県により盛岡城は廃城。それに伴い、桜山神社も遷座を余儀なくされ、妙泉寺山に場所を移したが、第二次世界大戦後、再建された盛岡城内に戻ってきた。
 現在祀られているのは初代藩主だけでなく、藩祖・光行、2代藩主・利重、11代藩主・利敬の4人。南部藩の守り神として今も盛岡を見守りつづけている。
 神宝の南北朝初期国長作とされる刀は国指定の重要文化財。毎年5月25〜27日には例大祭が行われ、武者行列やさんさ踊りが賑やかに執り行われる。
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中江藤樹邸跡(至徳堂) Nakae-Touju-tei-ato(Shitoku-dou) 

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 近江出身の儒学者中江藤樹(とうじゅ)は後に「近江聖人」といわれるようになった江戸時代初期の陽明学者である。
 近江の農民中江吉次の長男として生まれた藤樹は、伯耆(ほうき)米子藩主加藤家の百五十石取りの武士である祖父・徳左衛門の養子となり米子に赴いた。その後藩主加藤貞泰の転封で祖父母とともに大州に移住。一五歳で家督相続し、独学で朱子学を学んだ。二七歳の時、脱藩し近江へ。以後門弟の教育に努め、四一歳で亡くなるまで知行合一(ちこうごういつ、陽明学の実践重視の教え)の実践を深めた。
 宇和島中学校大洲分校に学んだ窪田哲二郎氏からの寄付金を基金として、有馬純次校長の構想により、藤樹の遺徳を伝えまた学ぶ「学舎」として、百石取の武士の住居を模した「至徳堂」を建設。落成は昭和一四年一一月一八日。昭和二八年には愛媛県指定史跡に選定された。
 大洲城三の丸の跡に建てられた県立大洲高校の敷地内にある。
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2007/8/9


龍城神社 Tatsuki-jinja Tatsuki Shrine

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 龍城神社(たつきじんじゃ)は、愛知県岡崎市康生町の岡崎公園内にある神社である。祭神は、徳川家康、本多忠勝。
 その昔、三河の守護代・西郷弾正左衛門稠頼(さいごうだんじょうざえもんつぎより)がこの地に築城した日、龍神を名乗る乙女が天守に現れ「われを鎮守の神と崇めよ」と言った。以来、天守楼上に龍神を祀り、城の名を龍ヶ城と称えたという。
 寛永年間(1624~1643)、家康が岡崎城内で誕生したという由来から、岡崎東照宮が岡崎城の本丸で創祠された。
 明和三(1766)年、本多忠粛が東照宮を三の丸へと移座し、徳川四天王の一人・本多忠勝を、映世(えいせい)大明神として本丸に祀った。
 明治になると再び東照宮を本丸内に移して映世神社と合併、龍城神社と改称し、康生町に移転する。
 現在、神社は岡崎公園内にあり、社殿と岡崎城が隣り合っている。
 龍城神社は、長い歴史を誇る徳川家と本多家ゆかりの社である。
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2007/7/24


しばた菊の祭典 Shibata-kiku-no-saiten Shibata Chrysanthemum Festival

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 しばた菊の祭典(しばたきくのさいてん)は、宮城県柴田郡柴田町船岡舘山にて行われている祭りである。
 昭和四五(1970)年にはじまり、毎年10月中旬~11月中旬に船岡城址公園の三の丸広場を会場に開催されている。
 絢爛豪華な菊人形場面が繰り広げられるほか、菊人形を使った風景場面、ガーデニングや菊のオブジェ、菊の風物詩も開催される。
 同時開催される大菊花展では、県内の菊愛好家が丹精込めて育てあげた大輪の花約1000鉢が出展される。
 期間中には、日本で唯一人の女性菊師が人形を着せ替える場面も見学できる。
 しばた菊の祭典は、町民参加コーナーもあり、家族連れで秋を満喫するには最適といえるイベントである。
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2007/7/19


デカンショ祭 Dekansho-matsuri Dekansho Festival

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 デカンショ祭りは、兵庫県篠山市で毎年八月中旬頃に行われる、デカンショ節の総踊りをメインとした祭りだ。
 丹波篠山に伝わるデカンショ節を後々まで残して行きたいという理念から、昭和二七(1952)年、篠山市周辺で個別に催されていたお祭りや盆踊りを統合し、篠山川河川敷で「第1回デカンショ祭」を開催したのが始まりである。
 踊りの基本となる「デカンショ節」は幕末の頃、日本全国の篠山出身者達が故郷を思い、当時の「みつ節」の歌詞を変えて唄ったのが始まりとされている。その後、各地で様々なバージョンが生み出され、やがて日本全国に波及していった。
 現在は、市内にある篠山城跡三の丸広場で催されており、広場の中央に組まれた巨大なやぐらの周りを何十にも輪を作って、県内外から訪れた人々が「ヨーイ、ヨーイ、デッカンショー」のおはやしにのって練り踊る「やぐら総踊り」は圧巻の迫力だ。
 夏の夜の思い出を増やすなら、これに加わらない手はない。
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2007/6/1


旧益田家物見矢倉 Kyuu-masuda-ke-monomiy-agura Monomi Yagura of the Old Masuda Family’s Residence

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 矢倉とは武器を収納する倉のこと。見張り台も兼ねたものは物見矢倉と呼ばれ、天井が高い造りとなっている。
 益田家は萩藩(長州藩)の重臣で、永大家老を務めた。
 旧益田家の物見矢倉は、かつての萩城三の丸(堀内)にあり、入母屋作り、平屋建ての建物。高さ1・8mの石組みの上に建てられ、総門から入る人々を見張っていた。棟瓦、懸魚(屋根につける妻飾り)、格子窓など、凝った意匠が施され、別名「矢倉長屋」とも呼ばれている。
 萩城の各総門にあった物見矢倉も現在では、この一箇所のみが残るだけであるが、ここの周囲は、物見矢倉をはじめ、長屋門が続くなど、城下町の雰囲気を色濃く残している。
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