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2007/11/16


御物頭御番所 Omonogashira-gobansho 

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 御物頭御番所(おものがしらごばんしょ)は、秋田県秋田市の保田城跡にある千秋公園に建つ史跡である。
 宝暦八(1758)年から安永七(1778)年の間に建築されたと推定される、秋田20万石佐竹氏の居城・久保田城内に唯一現存する藩政時代の役所建物とされている。
 御物頭御番所は、「物頭」と言われた足軽の組頭が長坂門の開閉や登城者の監視をし、城下町一帯の警備や火災の消火等を行っていた場所である。
 二の丸から長坂を登った表門の手前にある建物で、木造2階建て、内部には14畳の番所、7畳の休息室、台所、便所、2階には8畳の部屋があり、屋根は切妻藁葺きで正面南側に庇が付いている。
 御物頭御番所は、往時の姿を今に伝える建築物である。
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2007/10/12


沼田城跡 Numata-jyou-ato Numata Castle Ruins

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 群馬県沼田市に所在。戦国時代の天文元(1532)年、この地方の有力者、沼田十二代の万鬼斎顕泰(ばんきさいあきやす)が築城したと言われる。当時は倉内城と呼ばれた。
 関東へ至る要衝の地であることから、越後の上杉氏や小田原の北条氏、甲斐の武田氏などの戦国大名により目まぐるしい争奪戦が繰り広げられた。
 江戸時代に入ると真田氏の所領となり、慶長二(1597)年から数年かけて、真田信幸により五重の天守閣を建造、二の丸、三の丸などが整備され、近世城郭に改修されたという。
 関東では珍しく石垣が築かれていた沼田城。現在残っている遺構はあまりないが、わずかに残る石垣や堀が当時の面影をしのばせる。春には樹齢400年の古木「御殿桜」が咲き、沼田城の興亡の歴史を静かに語りかけてくるようだ。
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2007/8/29


高鍋城址 Takanabe-jou-shi 

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 高鍋城址(たかなべじょうし)一帯は舞鶴公園として整備され、二の丸表門が公園の正門にあたる。
 元々は財部城(たからべじょう)と呼ばれ、奈良時代に柏木左衛門尉が創築したと伝えられるが定かではなく、斉衡年間(854~56)に宇佐八幡宮の神官であった土持氏が入り、以後室町末期まで六百年にわたり土持氏の居城であった。
 後に高鍋城と改称されるのは、江戸時代の三代藩主秋月種信の頃で、この時大々的に城の拡張と城下町の整備が完成した。
 高鍋城は標高74mの丘陵に築かれ、丘の中腹に本丸、一段下った平地に二の丸、更に下ったところに三の丸を配した縄張りで、丘陵上には三層の櫓が築かれていた。その姿が羽ばたく鶴に似ていることから別名「舞鶴城」とも呼ばれる。
 二の丸跡の石段を上ると、本丸の正門であった長峰門跡を経て本丸跡にでる。政庁と奥御殿があった箇所に本丸政庁跡の標柱が立ち、本丸跡から更に上ると、見事な石垣が部分的に残っている。
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2007/5/14


郡上八幡城 Gujohachiman-jo 

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 郡上踊りでも知られる郡上の城は、鎌倉時代の承久三(1221)年、承久の乱の戦功で東胤行が美濃国山田荘の地頭となり、土着したのが起源とされている。永禄二(1559)年東常慶が城主であった時、遠藤盛数に東殿山城を攻められ落城したといわれる。
 東殿山城に入った遠藤盛数は、そこがあまりにも険峻であった為、新しく八幡山に城を築いた。その後、幾多の城主が変わり増築が行われた。城は東殿山南端、標高350メートルの八幡山山頂に天守曲輪を置き、桜の丸・松の丸の郭、山麓に二の丸を構えている。
 青山氏の代に二の丸が本丸とされ、御殿・政庁を置いた。明治維新を迎えた後、天守台・桜の丸・松の丸の石垣はほぼ完全な形で残された。現在の山頂にある模凝天守と隅櫓は昭和八(1933)年に建てられたもので、大垣城に模して作られている。
 八幡山からの景色は、眼前に東殿山が眺められ、往事の戦いのほどが偲ばれる。
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2007/5/1


京都 二条城 Kyoto-nijyou-jyou 

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 京都、二条通堀川。御所の西を固めるように位置する。関が原の戦いの後、徳川家康が、上洛時の宿所として作った平城。現在は京都市の管理の元、恩賜元離宮二条城として公開されている。
 徳川幕府にとっては、その最初と最後の転換の舞台となった場所である。豊臣秀頼との会見の後、大坂の陣を経て徳川体制が磐石となり、その二五〇年後、徳川最後の将軍十五代慶喜が二条城二の丸御殿の大広間で大政奉還を行った。二の丸御殿は国宝である。
 徳川家は大坂夏の陣の後、、規模拡張のため伏見城から多くの建物を移している。そのため建物は秀吉が残したものと、徳川家が残したものが総合されており、桃山・江戸初期の様式の全貌を見ることができる。そして、本丸は江戸中期に市中の大火で焼失していたため、明治になって京都御苑の北にあった旧桂宮邸を移築したものである。本丸御殿の南には、洋風庭園がある。
 戦国から江戸そして明治・昭和へ。幾多の変遷を重ねながらも、京における徳川の拠点としての「華」が今もまばゆい。
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2007/4/20


江戸城 Edojo Edo Castle

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 江戸城は、東京都千代田区千代田に位置し、江戸時代は徳川将軍の居城であり、明治維新後は皇居、皇居東御苑となっている。
 長禄元(1457)年、太田道灌が今の江戸城を築いたのが始まり。天正一八(1590)年の徳川家康の入城以後、増修・整備が進められ、寛永一三(1636)年、3代将軍家光の時に完成した。以後、徳川将軍16代の居城として、幕政の中心となった。
 明治維新の際、江戸城は無血で明治政府に明け渡され、翌年、東京奠都により皇城となり、昭和二三(1948)年に皇居と改称された。
 江戸城中心部の西側が皇居、東側にある本丸・二の丸は皇居東御苑として開放されている。南側の皇居外苑と北側の北の丸公園は常時開放されており、総構え全体の面積は城郭として世界最大を誇る。
 徳川時代から現在まで、名実ともに日本の象徴ともなっている城である。
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2007/3/28


山中城跡 Yamanaka-jyou-ato 

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 山中城跡は静岡県三島市山中新田、箱根山中に築かれた城址である。
 永禄年間(1558〜70)に、北条氏康が小田原城の防衛のために築いた山城。西の東海道に沿う要地として置かれ、「箱根十城」の一つに数えられた。
 天正十八(1590)年、小田原の役で豊臣秀吉軍七万人の軍勢に対し、四千人で篭城を行なうが、僅か半日で落城したと伝えられる。
 石を使わない土だけの山城は、日本でも珍しい造り。本丸、二の丸、三の丸を要し、本丸と二の丸の間には薬研堀が掘られる。
 堀の下には格子状に築かれた土塁が築かれ、北条流築城術の特徴を示している。
 現在は公園として整備され、丁寧に再現された城址はかつての戦国の山城の姿を今に残している。
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2007/3/27


興国寺城跡 Koukoku-ji-jyou-ato 

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 興国寺城跡は静岡県沼津市根古屋、愛鷹山尾根に位置する城址である。
 東国の戦国大名の草分けであり、後北条氏の祖である北条早雲の旗揚げの城として名高い。
 長享二(1488)年頃に早雲が領地を与えられ、築城したのが始まりとされる。伊豆討入りにより早雲が韮山城を居城とするまで居住していた。
 その後、今川家、武田家と城主を入れ替え、慶長六(1601)年に徳川家家臣天野三郎兵衛康景が城主となるが、慶長十二(1607)年の廃絶に伴い、廃城となった。
 尾根を利用した平山城で、三方を深田に囲まれた要害。現在は本丸、二の丸、天守台や土塁、堀の遺構の他、天主台付近には石垣が残り、当時の規模を感じさせる。
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