NIPPON Kichi - 日本吉

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2007/9/26


頼光寺 Raikou-ji Raikoji Temple

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 あじさい寺として親しまれている「頼光寺(らいこうじ)」は、平安時代の一条天皇の御世、長保年間(1000年頃)に、源満仲公夫人の法如尼が発願し、子の源賢僧都により建立されたと言われる。源賢僧都は、清和天皇の曾孫にあたる。
 頼光寺があじさい寺と呼ばれるようになった由縁は、昭和四九(1974)年に本堂を再建した際、川西市より100株のあじさいを寄贈されたことにはじまる。現在では500株に増え、見ごろの6月中旬から7月中旬には、多種類のあじさいが境内に所狭しと咲いている。
 花びらは青・ピンク・白など、色鮮やか。さらに、雨の日の風情はまた格別で、訪れる人々の心を和ませている。
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2007/9/7


羅 Ra 

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 羅(ら)は羅織とも言われ、隣り合う経糸が搦み合って、まるで編み物のような特色を示す綟り織(もじりおり)の一種であり、そうした綟り織の中でも最も古いものと考えられている。
 通常、織物では経糸は平行し、交わることはないが、羅では隣り合った経糸同士が交差する。そして更に隣の経糸とも交差し、網目状に広がっていく特色を持つ。その様が「編み物」と表現される由縁である。
 中国や南米ペルーに紀元前からあるもので、日本には奈良時代に中国から伝来したと見られ、飛鳥時代や奈良時代の遺品に、多種多様なものが今に伝えられている。
 平安時代には、貴族の象徴である烏帽子のほとんどがこの羅で織られたものであるほどだが、平安時代移行は次第に衰退し、江戸時代では最も単純な羅が織られはしていたものの、本格的な復活は昭和に入ってからである。
 夏の織物の王様ともいわれ、軽やかで張りのある生地が織りあがる羅は、二千年経った今も愛され続けている逸品である。
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2007/9/5


綴織 Tsuzure-ori Tsuzure-ori (Tapestry)

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 綴織(つづれおり)は、古くから世界中で行われてきた染織技法の一つである。
 歴史的にも芸術的にも価値の高いものとされており、最古のものは紀元前1580年頃にエジプトで織られたコプト織だといわれている。
 日本においては、仏教の伝来と共に伝わったといわれ、それらの遺品は法隆寺や正倉院の裂(きれ)に見ることが出来る。
 やがて、京都の仁和寺や本願寺などで綴織による装飾品などが織り始められ、その後も京都の西陣などでの帯の製織などにより、今に伝わっている。
 一般的には経糸(たていと)の下に実物大の下絵を置き、杼(ひ)に通した緯糸(よこいと)で、経糸を綴りわけながら文様を表していく。この際の経糸の綴りわけは、爪で一本一本をより分けていくという、非常に根気の要る手仕事となっている。
 「爪で織る錦」といわれる由縁であるが、そうした手作業により生み出される逸品は三千年前から人々を魅了して止まない美しさを今に伝えてくれている。
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2007/8/6


仙台張子 Sendai-hariko Sendai Hariko (Papier-Marche)

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 仙台張子(せんだいはりこ)とは、型を作ったその表面に十二支の動物や福助、お面などの描彩を施した紙製の玩具である。
 藩政時代の天保年間(1830~1844)に、伊達藩下級藩士が創始したといわれ、以来、明治の中ごろまで下級武士たちの手内職として普及、技術の確立が行われていった。
 明治以降には一端途絶えてしまうものの、大正十(1921)年に地元有志の手で復活し、現在に至っている。
 代表的な仙台張子としては「松川だるま」とよばれる、顔の周りを紺青に塗り、目にはガラス玉、腹部には福の神や宝船などがたくさん描かれた、正月の縁起物が古くから親しまれている。
 その他に動物やお面など、出来上がる型は様々あるが、どれにも共通する手作りの温かみと、機械では作り出せないユーモラスな造形が、二百年近くたった今も愛される由縁なのだろう。
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2007/6/5


札幌 手稲山 Sapporo Teine-yama Mt. Teine

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 札幌の手稲山(ていねやま)は、北海道札幌市西区~手稲区に跨る標高1023・7mの山である。
 手稲山は、アイヌ語で長い断崖という意味の「タンネウェンシリ」と言われていたが、和人は近くにあった「テイネイ」という、濡れている所を意味する名から手稲山と名付けた。
 明治以後、鉱山として開発され、最盛期には金・銀・銅・亜鉛・テルルなどの出鉱量は約6万トンにものぼり、東洋一の鉱山と称されたが、やがて縮小・閉鎖された。
 昭和三(1926)年、日本初のスキーヒュッテが建てられた。
 ヒュッテとはドイツ語で「山小屋」の意味で、北海道の山スキー発祥の地と言われる由縁となった。
 昭和五三(1978)年、老朽化のため閉鎖されたが、その後有志により復元新築されている。
 手稲山は、かつては鉱山として、今はスキーで有名な山である。
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2007/5/31


妙立寺 Myouryu-ji Myoryuji Temple

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 初代藩主前田利家は、政治の理念を日蓮宗・法華経の中道精神に求め、藩を守る祈願所として妙立寺を建立。天正一三(1583)年のことである。その後、寛永二十(1643)年に、加賀三代藩主前田利常が現在の地へ移築・建立した。
 利常の頃は既に徳川幕府の基礎固めが整い、諸大名は幕府の隠密の動きに敏感になっていた。利常は隠密を欺くため鼻毛を伸ばしてバカを装った。が、その一方では産業を育て、芸能文化を勧め、いざという時の兵舎代わりとして寺院を移築、建立した。その中心が妙立寺であった。
 一見、二階建てのようであるが実は四階七層建て。隠し通路、隠し部屋、隠し階段、どんでん返し、逃げ穴、二枚戸、落とし穴として機能する賽銭箱、など、いたるところに仕掛け・からくりがある。別名、忍者寺、と呼ばれる由縁である。
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2007/5/2


極楽山西方寺 Gokurakuzansaihou-Ji 

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 極楽山(定義山)西方寺は、宮城県仙台市青葉区にある浄土宗の寺である。本尊は、阿弥陀如来(定義如来)とされる。
 一二世紀、中国から平家に阿弥陀如来画像の宝軸が送献された。
 平家が壇ノ浦の戦いに敗れた後、平貞能がこの宝軸を守り、名も定義と改めて隠れ住んだ。それが定義如来の名の由縁である。
 建久9(1198)年、貞能が死ぬと、従臣らが墓上に小さな堂を建てて、宝軸を定義如来として祀った。
 宝永3(1706)年、従臣の子孫・早坂源兵衛が出家し、極楽山西方寺の開創となった。
 山内には壮麗な美しさを誇る五重塔をはじめ、天皇塚、長命水、定義玉手箱などがある。また、浄土宗では珍しく祈祷を行い、多くの信者が訪れる。
 極楽山西方寺は、源平時代より続く古式ゆかしい寺院である。
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2007/2/21


長篠合戦 のぼりまつり Nagashino-gassen Nobori-matsuri 

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 愛知県新城市の長篠城跡で行なわれる行事。
 「長篠城」をめぐり、織田信長、徳川家康連合軍と武田勝頼軍が激突した戦い「長篠合戦」で戦死した両軍の人たちの霊を慰めるために始った。
 長篠合戦は、1575年6月29日に起こった戦であり、織田、徳川連合軍が勝利を収めた戦いである。この戦いを機に、武田の勢力は衰え、織田信長の時代が加速し始めることになる。
 のぼりまつりは毎年5月上旬に行なわれる。戦没者の供養や、鎧兜や武士に扮した出演者たちが、大弓大会や合戦を再現したり、武術の披露などが行なわれる。
 圧巻は砲術隊による火縄銃の射撃で、織田軍が当時もっとも得意とした戦法である。
 「のぼりまつり」と呼ばれる由縁は、合戦に関わった数千本の定紋が入ったのぼりをたてられることかである。
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