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2008/9/9


登米薪能 Toyoma-takigi-nou 

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 毎年九月中旬、宮城県登米町の伝統芸能伝承館森舞台で、二三〇年の歴史を持つ登米薪能(とよまたきぎのう)が上演される。
 午後五時頃に火入りの儀が行われると、白砂の上にかがり火に囲まれた舞台が現れ、朗々とした格調高い演目がおよそ三時間上演される。薪の燃える音や香りが心地よく、日常生活とかけ離れた美しさに観客は魅了される。
 登米薪能は、伊達政宗が能を愛したことから、伊達一門である登米伊達家も能楽を公の儀式の式楽として取り入れたことにはじまった。その後武士の作法として伝承され、明治以降は地域住民に浸透し守られていく。登米薪能を現在まで伝承している登米謡曲会は明治四一(1908)年に発足、プロの域にまで届く高いレベルで伝統を守り続けている。
 宮城県無形民俗文化財に指定されており、チケットはすぐに売り切れとなる、人気の薪能だ。
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2008/7/16


貞山運河 Teizan-unga Teizan Canal

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 貞山運河(ていざんうんが)は、仙台湾沿いにある運河のことをいう。総延長約四六、四キロメートルの全国一長い運河で、旧北上川河口から阿武隈川河口までを結んでいる。
 仙台藩主伊達政宗は慶長二(1597)年、松島湾と阿武隈川を結ぶ運河の建設を命じた。政宗亡き後も複数の運河が計画され、その後明治一七(1884)年まで建設が続いた。貞山掘とも呼ばれ、伊達政宗公の謚(おくりな)である「瑞巌寺殿貞山禅利大居士」(ずいがんじでんていざんぜんりだいこじ)からその名がついた。
 この時代の物資輸送は舟運が中心だった。当時の内務卿大久保利通は、東北六県の長官に意見を求め、宮城・岩手間の米輸送に欠かせなかった北上川に着目し、北上川と阿武隈川を結んで東北の輸送手段を造ろうと考えた。
 現在の運河は、農業用水路や漁港の一部として利用されるほか、釣りの名所としても知られる。また、七北田川から名取川にかけての運河沿いには、美しい松林が続く海岸公園があり、サイクリングロードなどが整備されている。
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2008/6/20


五大堂 Godai-dou 

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 日本三景の一つ、宮城県の松島の中にあり、海岸側の小島に建っているのが、五大堂である。
 伊達家の菩提寺である瑞巌寺の附属寺院で、慶長九(1604)年に伊達政宗により再建されたものであり、国の重要文化財に指定されている。
 その興りはおよそ千二百年も前の大同二(807)年、坂上田村麻呂が奥州遠征の際に、毘沙門堂をこの地に建立したのが始まりとされる。
 その後の天長五(828)年に慈覚大師円仁(えんにん)が瑞巌寺の前身である延福寺を創建した際に堂を設け、大聖不動明王を中央に東方降三世(ごうざんぜ)、西方大威徳(だいいとく)、南方軍荼利(ぐんだり)、北方金剛夜叉(こんごうやしゃ)と五大明王像を安置したことより、五大堂と呼ばれることとなった。
 本尊は秘仏とされ、三三年に一度、ご開帳が行われるが、お堂そのものは公開されている。
 五大堂へと続く朱に塗られた橋を渡れば、日本三景の絶景と共によりいっそうの風情を楽しむことが出来るだろう。
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2008/2/5


政宗公まつり Masamune-kou-matsuri The Date Masamune Festival

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 伊達政宗が青年期を過ごしたことで知られる宮城県大崎市岩出山町。「政宗公まつり」は昭和三九(1964)年、政宗平和像が仙台青葉城跡から岩出山に移された際に始まった祭りで毎年九月、第二週の土日に開催される。
 土曜日は夜から宵祭りとなり、よさこい踊りや政宗大太鼓、提灯が美しい神輿が練り歩く。
 日曜日は本祭り。当時の武者姿を再現した伊達武者行列が現われる。ほら貝をふきながら、威風堂々と練り歩く騎馬武者隊、岩出山伊達家・一六代当主が役を勤める政宗公、愛姫の乗った神輿、支倉常長(はせくらつねなが)の遣欧使節団など本格的で壮大な戦国絵巻だ。
 続いて稚児行列、すずめ踊り、荒駒、忍者などが続いていく。
 弦月形前立てのりりしい姿になれる事もあり、毎年武士志願者が殺到している。町中をあげて盛大に楽しむ秋の風物詩だ。
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2008/1/30


登米新緑薪能 Toyoma-shinryoku-takigi-nou Toyoma Shinryoku Takigi-Noh

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 毎年六月中旬、宮城県登米町の伝統芸能伝承館森舞台で、二三〇年の歴史を持つ登米薪能(とよまたきぎのう)が上演される。
 午後五時頃に火入りの儀が行われると、白砂の上にかがり火に囲まれた舞台が現れ、朗々とした格調高い演目がおよそ三時間上演される。薪の燃える音や香りが心地よく、日常生活とかけ離れた美しさに観客は魅了される。
 登米薪能は伊達政宗が能を愛したことから、伊達一門である登米伊達家も能楽を公の儀式の際の式楽として取り入れたことにはじまった。その後武士の作法として伝承され、明治以降は地域住民に浸透し守られていく。登米薪能を現在まで伝承している登米謡曲会は明治四一(1908)年に発足、プロの域にまで届く高いレベルで伝統を守り続けている。
 宮城県無形民俗文化財に指定されており、今でも広く愛され続ける人気の薪能だ。
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2007/10/31


一関城 Ichinoseki-jyou Ichinoseki Castle Ruins

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 天正年間(1573〜1591)末期、豊臣秀吉の奥州仕置によって葛西氏が滅んだ後、一関は豊臣家臣の大名・木村氏を経て伊達氏が領有した。
 江戸幕府の開府の後は、慶長九(1604)年に伊達政宗が叔父である留守政景を一関に移し、さらに寛文年間(1661〜1672)には、政宗の10男・宗勝が入ったが、伊達騒動により宗勝は土佐に配流となった。天和二(1682)年、田村建顕が岩沼から移封となり、以後11代続いて明治を迎えた。
 本丸は千畳敷という標高約90メートル、100メートル×50メートルの長方形である。本丸と同一レベルに続く丘陵に空堀が1カ所認められ、本丸以外は適度な落差で階段状に各郭が配されていたと思われる。
 千畳敷北東に虎口があり、南東には若干の高さの方形があって矢倉などの施設が想像され、西には小山があり脇に田村神社が奉られている。
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2007/10/23


一迫町鹿踊 Ichihazama-chou-shishi-odori Ichihasama Shishi-Odori (Deer Dance)

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 一迫町鹿踊(いちはざまちょうししおどり)は、宮城県・一迫町で毎年7月に行われる、東北固有の文化・郷土芸能である。鹿の面を付けた演者が踊る、祖先供養を主とした魔よけの儀式で、400年以上昔から伝わる伝統芸能である。
 伝説によると、伊達政宗の時代、一迫町付近でひとりの猟師が岩倉山麓(いわくらさんれい)で、腹を叩きながら面白おかしく踊り狂う鹿の群れを目にし、あまりの楽しさにその輪に入って一緒に踊ったという。
 鹿踊では、雄鹿と雌鹿に扮した演者が、お互いの愛情を確認するシナリオに沿って狂喜乱舞数する踊りが披露される。
 一迫町鹿踊は、郷土色豊かな格調の高い神事。宮城県の無形民俗文化財にも指定されている。
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2007/9/28


白石和紙 Shiroishi-washi Shiroishi Washi Paper

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 白石和紙(しろいしわし)は、宮城県白石市に伝わる伝統工芸品である。
 平安時代中期以後、ふくよかで、清く、うるわしく、気品のある格調高い紙として、清少納言の枕草子や紫式部の源氏物語の中などに「みちのく紙」として登場しているのが白石和紙の起源ではないかとされている。
 慶長五(1600)年の関ヶ原の戦い以後、伊達政宗の領地となった白石では、政宗の家臣であった片倉小十郎が冬季の内職として紙作りを推奨し、その直後から続々と紙漉き人が各方面から入ってきたと言われている。
 未だに全て手作りであり、とても高品質な和紙として、東大寺の「お水取り」の儀式や、第二次世界大戦の降伏文書などに使用されてきた。
 白石和紙は、清く麗しい典雅な和紙である。
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