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2008/3/7


びらびら簪 Birabira-kanzashi 

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 びらびら簪(びらびらかんざし)は、未婚女性向けの簪である。
 簪は、女性が髪を結う時に使う日本の伝統的な装身具であり、特に江戸時代後期には様々な種類の物が作られ、髪を飾った。
 びらびら簪は、天明年間(1781~1789)頃から流行した簪で、銀製の鎖、細い棒状、または板状のものが簪の端部分から垂れ下がった形状をしている。
 鎖、棒状の先には玉や蝶・鳥などの飾り物がついているものが多いのが特徴とされる。
 江戸では俗に「びらびら」と呼び、多くは童女、未婚女性がつける簪とされており、裕福な商人の娘などが使っていた。
 歩くたびに揺れるところに人気があり、鎖の先の鈴や珊瑚など装飾物が、微かな音をたてる。
 びらびら簪は、今でも若い女性をひきつける魅力を持った、伝統工芸品である。
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2008/2/6


目貫 Menuki 

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 目貫(めぬき)とは刀を止める目釘の表面を飾る金具である。目釘がないと刀身が柄から抜け出してしまうという重要な留め具の役割を果たしており、目貫とは大切、主要という意味もこめられている。そのため、現在でも、賑やかな繁華街や商店街をさし「めぬき通り」と称する言葉が残されている。
 元々は目釘と目貫は同一のものであり、刀において実用的なものであったが、その後、目釘とは別の「美しさを飾る」ものとして目釘の表面を飾る金具となっていった。江戸時代は多くの名人と呼ばれる金工が輩出され、彼らの手によって作られた装飾品としての目貫は、人々の間で流行し、親しまれることとなった。
 特に金工として有名なのは、織田信長や豊臣秀吉に信頼された「後藤家」があげられる。中でも四代目・後藤光乗(ごとうみつじょう)は名人金工として今日まで語りつがれ、彼の手がけた目貫は優れた金物として高い評価を残している。
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2008/1/15


織部釉 Oribeyuu 

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 戦国武将・古田重然(ふるたしげてる)は、徳川家に仕えた武将でありながら優れた茶人として「古田織部(ふるたおりべ)」という名前で知られ、茶器製作をも手掛けたという。その織部が美濃窯で焼かせた斬新で個性的な作品は、織部の名前に因んで「織部焼」と名づけられた。
 織部焼には赤、黒、青などがあるが、青織部に施されている釉薬(ゆうやく)は、織部の名前に由来して織部釉と名づけられ、織部焼の代表的なものとされている。
 織部釉は高火度釉に分類される緑銅釉で、一二〇〇度以上の温度で溶けて酸化焼成によって緑色になるという。
 「織部好み」という流行をもたらしたと伝えられている、斬新で奇抜ともいえる形や色使いは、桃山時代の人々を大いに魅了したといわれている。
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2007/12/26


姉様人形 Anesama-ningyou 

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 姉様人形(あねさまにんぎょう)は江戸時代から流行した女の子向けの紙人形である。和紙と千代紙からできており、すらりとした若い女性のシルエットをしている。女の子から見る姉様、いわゆる若く美しい大人の女性への憧れが人形に映し出されていると言われている。
 昭和初期までは、おままごとなど日常の遊び用玩具として使われていたが、今日では民芸品として残されている。
 衣装、飾り付け、着物の柄など色彩豊かで、髪型もお下げ、桃割れ、島田などその人形の年齢に合わせ、様々に結い上げられている。
 顔は簡略化され描かれてない事が多いが、島根県松江市に伝わる「松江姉様」は、花をあしらった大きな髪飾の下に色白の肌、伏目勝ちの切れ長の瞳におちょぼ口という和風美人が描かれてある。かの小泉八雲もこれをこよなく愛し、机に飾って愛でていたという。
 他にも長野県松本市の日本髪の美しさを強調した「松本姉様人形」など、全国で五〇種類以上もの姉様人形が確認されている。
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華道 Kadou 

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 四季折々の草花や樹木などを花器に生けてその姿の美しさや「いのち」の尊さを表現し観賞する「華道(かどう)」は、いけばなに「道」としての側面を加えたもので、礼儀作法を大切にする日本の伝統的な芸術である。
 仏教が日本に伝来し、発展に伴って仏前に花を手向ける様になった事がいけばなとしての始まりで、草木や花を人間と同じ「いのち」のあるものとして見つめ、その美しさを花瓶の上で表現したものが華道とされる。江戸時代後期の文化・文政(1804〜1829年)に生花や挿花が流行し、池坊(いけのぼう)を中心に数多くの流派が全国に広がっていった。
 芸術としての華道は師から弟子へ伝承され、花を生ける技術だけではなく、人間的な面や生き方といった思想的なものにまで及んで受け継がれる。
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2007/12/25


常燈明台 Joutou-myoudai 

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 靖国通り九段坂上にある「常燈明台(じょうとうみょうだい)」は、東京湾の漁船の目印のために建てられたものだという。今からではとても考えられないが、当時はここから東京湾が見られるほど見晴らしの良い高台であったといえよう。遠く房総からもその明かりを見ることができたともいわれる。
 明治四(1871)年、当初は靖国神社に合祀されている霊を慰めるために、靖国神社に建立された。その後道路改修のために現在地に移されたという。
 台座は日本様式の石造りになっており、上部は八角円筒の西洋式で、頂上には金色の風見鶏がつけられている。和洋折衷の建築様式が流行した、明治初期の雰囲気が今も漂う。
 一〇〇年以上もの間、街の移り変わりを見下ろしてきた燈台である。
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2007/12/20


千社札 Sensha-fuda 

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 千社札(せんしゃふだ)とは、神社仏閣に参拝をした証として、納めたり貼ったりする自分の名入りの札である。
 千社札には、幅が58mm、高さが173mmの一丁札(いっちょうふだ)と呼ばれる札が用いられる。
 かつては銅板で作られていたが、江戸時代以降は紙を用いる事が多く、近年ではシールとなって販売されている。
 元々は願や歌などを木札にしたためて神社仏閣に納札する風習であったが、江戸時代に入り、自分が来た証拠として、名前や出身地などを書いた紙札を鳥居や札所などに貼るようになった。
 やがて、信仰から洒落心を持つ庶民の遊びとして流行し、美しい絵柄入りで印刷したものが作られるようになり、庶民の中にファッションとして浸透していった。
 千社札は、紙やシールで作られた、神社仏閣の参拝記念札である。
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2007/12/3


文様 縞 Monyou Shima 

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 縞文様(しまもよう)とは、主にシンプルな縦縞で表現される文様を総じてそう呼ぶが、江戸時代までは「しま」という呼び方は無く、条布や筋などと呼ばれていた。
 古来、日本語では縞は筋(すぢ)とされ、渡来品の筋ものを「島もの」と呼んで区別し、後に「縞」の字をあてたとされている。
 縞の細さと数により、千筋・万筋・毛万筋・極筋と呼ばれるが、江戸期の毛万筋と今のそれとはイメージが異なっている。
 平安期、縞模様はそのシンプルさ故に、着物の柄としてはあまり用いられることはなかったが、江戸時代中期頃より、木綿の流通とともに縦縞が流行、庶民の服装へも多く取り入れられることとなり、江戸時代の「粋」を代表する文様ともなった。
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