NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/6/30


神岡城 Kamioka-jou 

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 神岡城(かみおかじょう)は、岐阜県飛騨市神岡町城ケ丘にあった城である。
 永禄七(1564)年、越中への侵攻拠点とする事を目的に、武田信玄の命令で江馬時盛(えまときもり)が築城し、高原諏訪城の支城となった。
 天正一三(1585)年、金森長近による飛騨攻略の結果、その家臣・山田小十郎が城代となったが、元和元(1615)年に江戸幕府の一国一城令で破却され、廃城となった。
 元々は江馬館、東町城などと言われ、江戸時代に書かれた「飛州志」には江馬之御館と書かれていたが、昭和四五(1670)年、城跡に模擬天守を造った時に、神岡城という名前になった。
 現在、城跡には再現された天守閣や残された遺構である壕や石塁などがあり、内部では実際に使用された鎧、刀剣、馬具などが一般公開されている。
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2008/4/16


旧観坊 Kyuukanbou 

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 旧観坊(きゅうかんぼう)は、石動山(せきどうざん)旧観坊とも称し、その名のとおり、能登と越中の国境にある信仰の山、石動山中にある坊だ。
 坊とは僧侶の宿舎や参拝者達の宿泊施設を表し、石動山信仰が最盛期を迎えたころには山全体に約三百六十の坊が建ち、三千人の衆徒を擁していたという。
 明治初年の廃仏毀釈により、神仏習合の地であった同山は衰退することになるが、旧観坊はその悲運の山に残された唯一の坊である。
 建造年代は不明だが、慶安二(1649)年の書上帳にはすでに記されていることから、それ以前の建造と見られる。
 苔むした入母屋造りの厚い茅葺や時代感のある灰色の壁板など、農家風の構えをもっているが、化粧垂木(けしょうだるき)などの構造様式にはかつての寺坊としての格式を残している。
 周辺は紅葉のスポットとしても知られており、旧観坊を覆うように色付く紅葉や、廃れて森へと還りつつある坊の遺構などが、よりいっそうの趣を訪れるものに与えてくれる。
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2008/3/6


八尾曳山祭 Yao-hikiyama-matsuri 

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 八尾曳山祭(やおひきやままつり)は、富山県富山市八尾町にて、毎年五月三日に行われている祭りである。県の文化財に指定されている。
 寛保元(1741)年、産神(うぶがみ)上皇太子社の社殿修理の年に、上新町が花山に人形と素人芝居役者を乗せて供奉したのが始まりだといわれている。
 富山藩内の品物を納める御納所(ごのうそ)として、栄華を極めた越中町人文化を象徴して今もなお伝承されている祭りで、三味線、笛、太鼓の奏でる古式ゆかしい典雅な曳山囃子にのって、揃いの法被姿の若者達により、6本の豪華絢爛な曳山が町内を練り歩く。
 夜になると曳山は装飾を外されて全体を提灯で覆い、夜更けまでゆったりと曳き廻される。
 八尾曳山祭は、華やかな提灯山車を坂の町で曳いて巡る、雄々しくも優雅な祭りである。
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倶利伽羅峠 火牛の像 Kurikaratouge Kagyuunozou 

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 倶利伽羅峠(くりからとうげ)は、旧越中国(えっちゅうこく)である富山県小矢部市と、旧加賀国(かがこく)である石川県津幡町との境界である、標高277mの砺波山(となみやま)にある旧北陸道の峠である。
 火牛の像(かぎゅうのぞう)は、山頂にあるくりから公園内の、倶利伽羅古戦場猿ヶ馬場のすぐ近くにあり、角にたいまつをつけた牛が今にも突進しようとするその姿には鬼気迫るものがある。
 寿永三(1183)年、木曽で兵を挙げた木曽義仲は越中国から侵攻し、10万の軍を率いた加賀国側の平維盛の軍と倶利伽羅峠で対峙した。
 義仲は牛の角に松明をくくりつけ、牛を先頭に山を駆け抜けて平家を破った。これは、その「火牛の計」にちなんだモニュメントで、合戦ではこのような牛が4、5百頭平家の陣に襲いかかったという。
 倶利伽羅峠の火牛の像は、源平合戦の昔が偲ばれる彫像である。
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2008/1/17


青貝塗 Aogai-nuri 

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 青貝塗(あおがいぬり)は、国の伝統的工芸品に指定されている「高岡漆器」の代表的な技法の一つ。
 アワビなどの貝を刀、針といった道具を用いて三角形や菱形の細片を作り、これを組み合わせて山水花鳥を表現する技法で、江戸時代初期に当時の越中富山藩主が京都より漆器職人を招いたことに始まるという。
 約〇・三ミリ厚の貝を貼り付ける一般的な螺鈿(らでん)に対し、青貝塗は約〇・一ミリ厚の薄い貝を貼り付けるため、下地の黒い漆が透けて貝が青く見えることから、こう呼ばれるようになった。
 青貝塗の作業は分業化されており、木地師、青貝師、塗師(ぬし)がそれぞれ連携を取りながら製品に仕上げていく。木地師が木で箱や器などを作り、青貝師が貝を貼り付け、塗師が下塗りと上塗りを行う。製品はお盆や文箱、コンパクトな箱など実用品が多い。
 漆器は使えば使うほど味が出て、時と共に深い愛着がわいてくるもの。だからこそ、普段の暮らしの中で使って欲しいと、青貝塗の職人たちは願ってやまない。
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2007/8/24


石鎚山お山開き Ishizuchi-san-oyama-biraki 

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 石鎚山(いしづちやま)は、加賀白山、越中立山、大和大嶺山及び釈迦嶽、駿河富士、伯耆大山とともに、日本七霊山のひとつにも数えられる四国の霊峰。標高は1982メートルである。この石鎚山お山開きは石鎚神社最大の御祭儀で、毎年七月一日〜一〇日までの一〇日間に渡って行なわれる。
 石鎚神社は、修験者の役小角(えんのおづの)が和銅三(710)年頃開山、後年、空海が修業を行ったとも場所とも伝えられる由緒ある神社。
 大祭前日の六月三〇日は出御祭で、神輿に納められた智・仁・勇の三体のご神像が、七合目にある成就社まで運ばれる。翌七月一日の朝、大太鼓の音に送られ、白装束姿の信者が御神像を背に、険しい山道を山頂へと駆け上がる。山頂では、ご神像拝戴(しんぞうはいたい)と呼ばれる、信者の背中にご神像を押しつける神事が行なわれ、人々は一年の無病息災を祈願、その後ご神像は頂上の社に納められ、祭りの期間中鎮座する。
 元々は女人禁制のお山であったが、現在ではそれは七月一日のみとなった。
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2007/4/24


富山城 Toyamajo 

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 富山城は、富山県富山市にあった城である。現在は、富山城址公園となっている。
 天文一二(1543)年、越中守護代・神保長職の家臣とされる水越勝重が、藤井村に築城したのが最初と言われる。
 富山城は神保家、上杉家、織田家の抗争の地となり、やがて織田家家臣の佐々成政が入城したが、関ヶ原の合戦後は加賀前田氏の支配下に置かれた。
 寛永一六(1639)年、前田氏支藩として富山藩が創設され、富山城は藩主居城となり明治まで続いた。維新後、廃城となる。
 現在、城跡は城趾公園となっている。本の丸南側の堀と石垣、本の丸枡形虎口の石垣上には三層の模擬天守が建てられており、天守内部は郷土博物館に、三層の隅櫓風の建物は美術館になっている。
 富山城趾は、戦乱の歴史を現代に遺す史跡である。
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2007/2/21


量興寺 Ryoukou-ji 

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 飛鳥時代、推古天皇の発願により創建された寺で、当時は「多可寺(たかでら)」と称した。境内は三町四方を擁する広さで、地方屈指の古刹だったという。
 時代の推移に伴い、寺域も減っていったが、付近一円が皇室御領に属したため、平安時代の鳥羽天皇の御世に九条民部卿顕頼が、寺の一部分に伽藍を建立、名を改めて現在の名、「量興寺」とした。
 その後、鎌倉時代には藤原氏の厚い信仰を得て興隆を極めるが、藤原氏の勢力が衰退するにつれて、量興寺も存亡の危機に陥ることとなる。しかし、安土桃山時代の天正六(1578)年、これを嘆いた当時の地頭矢田部越中守長久が本堂を再建、御本尊に薬師如来像を安置し、良寛上人を招いて開山としたという。
 以来、四〇〇年もの間、法灯を絶やすことなく今に至っている。この寺は、境内の蓮の花でも有名で、毎年7月にはハス祭りが行われる。
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