NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/4/25


手水鉢 Chozu-bachi 

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 手水鉢(ちょうずばち)とは、神前・仏前に向かう際に水で身を清め、心のけがれを払う為に備えられている石の器である。
 神社などに設けられている姿を目にするが、平安時代(794~1185)に、始まった茶の湯に取り入れたのが最初とされ、石と水の美が現在でも日本庭園に欠かせないものとなっている。
 低い姿勢で使う蹲踞手水鉢(つくばいちょうずばち)、立ったままで使う立手水鉢(たちちょうずばち)、建物の縁先に配される縁先手水鉢(えんさきちょうずばち)などがある。
 デザインも石本来の姿を使用したものから、作りこまれたものなど様々で、創作手水鉢としては立方体の銀閣寺型、やわらかい丸みのある鉄鉢型・菊鉢型・銭鉢型など、モチーフとなっている対象物も意外性に富んでいて面白い。
 苔が付きやすい石を敢えて材料としたり、水滴により琴のような音を発生する水琴窟(すいきんくつ)の仕掛けを込めたりと、様々な趣が示されている。
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2008/4/16


旧観坊 Kyuukanbou 

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 旧観坊(きゅうかんぼう)は、石動山(せきどうざん)旧観坊とも称し、その名のとおり、能登と越中の国境にある信仰の山、石動山中にある坊だ。
 坊とは僧侶の宿舎や参拝者達の宿泊施設を表し、石動山信仰が最盛期を迎えたころには山全体に約三百六十の坊が建ち、三千人の衆徒を擁していたという。
 明治初年の廃仏毀釈により、神仏習合の地であった同山は衰退することになるが、旧観坊はその悲運の山に残された唯一の坊である。
 建造年代は不明だが、慶安二(1649)年の書上帳にはすでに記されていることから、それ以前の建造と見られる。
 苔むした入母屋造りの厚い茅葺や時代感のある灰色の壁板など、農家風の構えをもっているが、化粧垂木(けしょうだるき)などの構造様式にはかつての寺坊としての格式を残している。
 周辺は紅葉のスポットとしても知られており、旧観坊を覆うように色付く紅葉や、廃れて森へと還りつつある坊の遺構などが、よりいっそうの趣を訪れるものに与えてくれる。
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2008/2/1


標津湿原 Shibetsu-shitsugen Shibetsu Wetland

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 北海道の標津湿原(しべつしつげん)は、野付半島の北に位置し、根室海峡に面した砂丘に隣接して発達した湿原である。
 この一帯は「ポー川史跡自然公園」となっており、この標津湿原は、伊茶仁川の小さな支流ポー川と標津川に挟まれていて、一般的には上部の川北湿原と、下流の三本木湿原とに区分して呼ばれている。
 泥炭が堆積した高層湿原で、170haの広さのミズゴケがマット状に広がっている。また、三〇〇〇年の時をかけて造り上げられた氷河期の生き残りと呼ばれるツンドラ植物も見られる。
 湿原は最も壊れ易い自然である。ミズゴケ類も一度踏みつけられると容易には回復しない。生態系にも欠かせない標津湿原は国の天然記念物に指定され、大切に保護されている。
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2007/12/14


花尾神社 Hanao-jinja 

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 花尾神社(はなおじんじゃ)は鹿児島市花尾町にある島津藩所縁の神社。国道を少し離れた田園風景の中に朱塗りの赤い鳥居が立ち、杉の林へ参道が伸びている。
 島津氏初代・島津忠久は源頼朝と丹後局の間に生まれた子という伝説がある。この神社は忠久が薩摩・大隅・日向の三州の守護職に任ぜられた際に御堂を建て、頼朝尊像を安置、創建した。
 現在残る社殿は正徳三(1713)年建立のもの。幣殿や向拝に、鶴と松、牡丹と唐獅子、様々な花や長い牙をもつ象など、明るい色彩の細かな彫刻と装飾がある。さつま日光とも称されており、いつまでも見ていたくなる様な風情だ。
 天井絵は401枚の彩色による精密な草花の写生絵が見られる。嘉永六(1853)年狩野派の絵師・能勢一清が描いたとされているが、現存している絵がそうであるかは定かではない。
 社殿の横には丹後局の墓、御苔石があり、安産・子授のお守りに石の苔を持ちかえる人が多い。
 昭和五五(1980)年に県の有形文化財となっている。
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龍門司坂 Tatsumonji-zaka 

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 龍門司坂(たつもんじざか)は、薩摩の旧街道として知られる大口筋の一部で、全長が一、五キロメートルの坂道である。現在は約五百メートルが当時の石敷きで残されており、近世の交通を考える上で重要な道として考えられ、平成一八(2007)年に国の指定文化財となった。
 この坂道は寛永一二(1635)年に造られ、その後、元文六(1741)年には地元で採れる凝灰岩を利用して付近の山より切り出し、石畳を敷き詰め整備された。幅は広いところで七メートルほどあり、割合と広く感じられる。
 明治一〇(1877)年には、熊本へ向かう西郷隆盛率いる薩摩軍もこの坂を通ったといい、付近の人々が太鼓や三味線で送り出したといわれている。
 杉木立の中にある苔むした石畳にはたいへん風情があり、情緒たっぷりの坂道であることから、歴史の道百選にも選ばれている。
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2007/12/11


ネジレノ滝 Nejireno-taki 

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 ネジレノ滝は、多摩川上流部の支流である海沢川(うなさわがわ)が流れる海沢谷にかかる滝だ。
 上下二段に分かれた滝で、下段は落差およそ6m、上段は13mほどある。
 滝の両脇は極端にせり上がった大きな岩壁に挟まれており、そこに深く切り込むように上段の滝の落瀑がみられる。そして、上段から少し離れてちょうど岩壁の途切れるところから、轟々と音を立てて下段が流れ落ちている。
 この下段の飛瀑の向きが、上段に対してほぼ90度の角度でねじれていることから、ネジレノ滝と呼ばれている。
 天を覆うようにせり出した岩壁の奥から流れ落ちてくるため、瀑音が周囲に反響、よりいっそうの迫力ある轟音を響かせる。
 また、その聳え立つ岩壁が日の光をさえぎるために周囲は暗いが、それがかえって苔をまとった岩にたなびく白い飛瀑を神秘的に見せてくれる。
 滝の名前に反して、奥多摩の豊かな自然の営みをストレートに見せてくれる名瀑である。
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2007/11/26


百尋の滝 Hyakuhiro-no-taki 

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 百尋の滝(ひゃくひろのたき)は、東京都の奥多摩地区に位置する川苔山(かわのりやま)の登山コースとなっている川苔谷林道の奥にある滝だ。
 その落差は30mほどあり、日原川へ流れ込む川苔谷上流部にかかる滝で、奥多摩を代表する名瀑の一つに数えられている。また、水量も豊富で迫力あり、その規模も奥多摩では最大規模とみなされている。
 その瀑容は、複雑な面を持つ岩壁を流れ落ちるため、途中で何段かに折れ、直瀑ながらも趣のある白い飛瀑で楽しませてくれる。
 水量と高さのバランスも程よく、均整のとれた気品のある滝としても知られ、名瀑の名に違わぬ美しさを見せてくれる。
 周辺にはヤマブキやヒメレンゲ、ワチガイソウやマルバアオダモなどが繁茂する自然豊かな場所でもあり、滝だけではない、新緑や紅葉などの自然の息吹も楽しむことができる。
 清々しい白い飛瀑と豊かな緑に囲まれての贅沢なまでの一時は、心まで豊かにしてくれるだろう。
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2007/10/31


吉野 西行庵 Yoshino Saigyou-an Yoshino Saigyo-an Hut

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 西行庵は、奈良県吉野郡吉野町吉野山にある庵である。
 西行は、「新古今集」や「山家集」で知られる、平安末期の歌人。西行庵は、旅の歌人・西行法師が、俗塵を避けて3年の春秋を隠棲したとされる小さな庵である。
 近くには今も苔清水と呼ばれる清らかな水が湧き出ていて、貞亨元(1684)年には西行を慕って松尾芭蕉もここを訪れ、歌を詠んでいる。
 清水は、大和の水31選の一つに数えられている。
 西行の歌碑や、芭蕉の句碑が立ち、春秋は桜、紅葉が美しい。
 西行庵は、歌の心を刺激する場所である。
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