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2008/7/31


岩津天満宮 Iwazu-tenman-guu 

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 岩津天満宮(いわづてんまんぐう)は、愛知県岡崎市岩津町東山にある神社である。通称、岩津天神。祭神に、学問・正直・書道の神である菅原道真を祀る。岩津天神は、芭蕉の葉に乗り天神山に降臨したと伝えられる。
 宝暦九(1759)年、信光明寺の一誉上人が旅の途上、病にかかり、天満宮に祈願したところ、病はたちどころに回復した。霊験に感激した上人が鎌倉の荏柄山天満宮から分霊を頂き観音堂に祀ると、天神様が夢枕に立ち、その神託に従って現在地に社殿を建立して祀ったという。
 境内中央にある、天神様の使いの「撫で牛」は、受験合格・学業上達・病気平癒を願う人々によって撫でられ、黒光りしている。春の「梅まつり」の頃には約400本の紅梅・白梅が咲き乱れ、境内は梅の香りで包まれる。
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2008/5/26


亀戸天神社 Kameido-tenjinja 

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 亀戸天神社(かめいどてんじんじゃ)は、東京都江東区亀戸にある神社である。通称「亀戸天神、亀戸天満宮」と呼ばれる。祭神は、天満大神(てんまんおおかみ)、天菩日命(あめのほひのみこと)。
 正保三(1646)年、菅原道真(すがわらみちざね)の末裔・菅原大鳥居信祐(すがわらおおとりいのぶすけ)は、神のお告げにより、道真ゆかりの飛び梅の枝で天神像を刻み、天神信仰を広めるため社殿建立の志をもち、諸国を巡ったという。
 寛文元(1661)年、江戸の本所亀戸村に辿り着き、元々あった天神の小祠に天神像を奉祀したのが始まりとされる。
 翌年、社殿・楼門・回廊・心字池・太鼓橋などが九州の太宰天満宮にならい造営された。
 例年一月に行われる、木製の鷽を授与する鷽替神事(うそかえしんじ)で知られている。
 亀戸天神社は、総本社・太宰府天満宮に対して東宰府天満宮と言い、東国天満宮の宗社として崇敬されている神社である。
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2007/12/14


菅原神社(藤川天神) 臥龍梅 Sugawara-tenjin(Fujikawa-tenjin) Garyuu-bai 

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 菅原道真は、中流公家の出身から右大臣にまで出世したエリートだったが、左大臣・藤原時平の策略で左遷、二年後の延喜三(903)年に大宰府の地にて無念のまま没したとされている。
 しかし、鹿児島県薩摩郡東郷町には、道真が大宰府にて病死を装いこの地に下って余生を送った、という伝説が残されている。
 菅原天神は菅原道真を祀っており、境内には約一五〇本の梅の木が植えられている。その中で、地に横たわった幹から空に向かって垂直に細い枝が伸び、淡紅色の八重の花を咲かせる七〇本ほどの臥龍梅(がりゅうばい)がある。臥竜とは夜明け前の寝ている龍、まだ天にのぼれず地に潜み、隠れている龍を指す。
 調査により、一本から発生し地に着いた枝から根を下ろして新株となり、今の形となっていることが分かった。伝説でも同じく道真が植えた一株が繁殖し次々に成長したもの、と伝えられている。
 樹齢は約千年、根回りは最大約1・8メートル。国指定天然記念物となっている。
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2007/12/11


即清寺 Sokusei-ji 

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 青梅市にある即清寺(そくせいじ)は真言宗の古刹で、本尊は不空羂索大忿怒明王(ふくうけんさくだいふんぬみょうおう)である。
 創設は元慶八(884)年で、僧・元喩(げんゆ)が開創したと言われ、建久年間(1190~1199)源頼朝の命により畠山重忠が伽藍を造営した。即清寺の名は、重忠の戒名「勇賛即清居士(ゆうさんそくせいこじ)」から名づけられている。
 その後は北条氏照に信仰され、慶安元(1648)年には徳川氏から明王堂領三石の朱印状が寄せられた。
 寛永七(1630)年に鋳造された銅鐘は、太平洋戦争中に供出され、現在のものは戦後造られた。また本堂の前には、文明五(1473)年に造立された十三仏結衆板碑がある。
 即清寺は吉野街道の山裾にあり、この寺を含め周辺一帯は東西四キロメートルにわたり吉野梅郷と呼ばれる梅の名所として知られ、境内には招春梅と呼ばれる梅の銘木がある。その他、庭にはモクレンの大木があり、四月初めに多くの花を咲かせる。
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2007/12/4


松竹梅 Shouchikubai 

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 松竹梅(しょうちくばい)とは日本ではめでたいものとして慶事に使われる場合と三つの等級に使われることがある。
 元々は中国の「歳寒三友(さいかんのさんゆう)」が元になっている。歳寒三友とは「冬の寒い季節に友とすべき三つのもの」という意で松・竹・梅の三つをさす。
 寒さの中でも美しくその緑の色合いを保つ松と竹。冬のさなか他の花に先駆けて雪の中に花と薫りを咲かせる梅。そのことから、高潔、節操、清純の象徴として、この三つが中国では文人画の題材としてよく登場していた。
 この故事が日本に伝わり、常緑の葉を持つ松は平安時代に不老長寿の象徴になり、竹は室町時代の頃よりその節目正しくまっすぐな様子が縁起のよいものとされ、江戸時代になって冬に毅然と咲く梅も縁起のよいものとして加わったことから、鶴亀などとともに慶事によく使われるようになったといわれている。松は最上級、竹は上級、梅は普通という等級の分別に使われることもあるが、縁起物としての登場の順だけで、本来序列はない。
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2007/7/31


梅花祭 Baika-sai 

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 梅花祭(ばいかさい)は、古都京都にふさわしい、歴史と伝統のある北野天満宮の祭典。「梅花御供(ばいかのごく)」の神事、皇后陛下の御代拝が行われる。
 北野天満宮は天暦元(947)年、菅原道真公の御霊を鎮めるために創建された神社であるが、この祭りは御祭神道真公の祥月命日である二月二五日に行われるようになったのが始まりで、古くは「菜種御供(なたねのごく)」と呼ばれていた。
 ご祭神を「なだめる」という意味と菜種の語音が通じるということで菜種の花を供えていたものが、明治以降新暦の二月に行なわれるようになったことから梅の花を用いるようになり、次第に「梅花御供」と呼ばれるようになったという。今でも神職などは、冠に菜の花をつけてご奉仕を行う。
 当日は豊臣秀吉公が北野大茶湯を催したことに因んで「梅花祭野点大茶湯」が催され、花街から北野天満宮にゆかりの上七軒総出で執り行われる。野点茶席が設けられ、満開の梅の花とともに芸妓や女将が奉仕してくれるという優雅な催しである。
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2007/6/14


松前神社 Matsumae-jinja 

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 松前神社(まつまえじんじゃ)は、北海道松前郡松前市にある松前城址内にある神社。
 江戸時代に北海道にあった松前藩の先祖である武田信広を祀る。元々は歴代の松前藩主を祭祀していたが、旧藩主である松前家の先祖を祀るために、大正時代にできたという。
 松前神社で有名なものに、「松前神楽(まつまえかぐら)」がある。江戸時代、松前藩の奨励を受けていた頃から「お城神楽」と呼ばれ、境内の各地域に伝えられた。湯立神楽や能、舞楽などの要素を取り入れた古雅で格調高い舞である。延宝二(1674)年に松前十代藩主・矩広(のりひろ)が、平安と豊穣を祈る祭事として恒例行事に定めた。毎年5月上旬から中旬に執り行われる。
 また、神社鳥居の右手にある「臥龍梅」という、徳川三代将軍・家光が松前家七世公広に贈った梅は、松前神社の名物であり、初春の頃には観梅がてら参詣に訪れる人々で賑う。
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2007/5/24


防府天満宮 Houfu-tenmanguu 

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 防府天満宮(ほうふてんまんぐう)は山口県防府市にある、菅原道真を学問の神様として祀る天満宮である。
 菅原道真がなくなった翌年の延喜二(904)年、日本で最初の天満宮として創建された。
 京都の北野天満宮、福岡の太宰府天満宮と並んで「日本三天神」に数えられている。
 境内は五〇種類、一一〇〇本もの紅梅白梅が植えられ、毎年見事な花をつけ、花見客でにぎわう。
 二月には牛替神事(うしかえしんじ)、八月は御誕辰祭(ごたんしんさい)、十月は花神子社参式(はなみこしゃさんしき)、一一月は御神幸祭(ごじんこうさい)など、一年中、お祭りで賑わい、人が絶えることのない天満宮である。
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