NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/10/31


岡崎正宗 okazaki-masamune 

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 岡崎正宗(おかざきまさむね)は、鎌倉時代後期から室町時代前期にかけて相模国鎌倉で活動した、日本刀剣史上もっとも著名な刀工。
 詳しい系図や生没年等は不詳とされている。
 古刀の秘伝には「五ヵ伝」と総称される、山城・大和・備前・美濃・相模の五ヵ国それぞれに伝来する特徴的な作風があるが、正宗はこのうちの「相州伝」の完成者である。のちに一派を開き、無比の名匠と称せられ、多くの弟子を輩出した。
 正宗という人物にも逸話は尽きなく、それらは今なお講談などでも取り上げられているほか、正宗が鍛えた日本刀は切れ味や頑強さだけが評価されていた訳ではなく、刀剣の放つ神秘的な妖艶さや美術工芸品としての芸術性の高さも賞賛され、「正宗」の名は、のちの名刀の代名詞として後世の刀工に影響を与え続けている。
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2008/7/9


刀工 Toukou 

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 刀工(とうこう)とは、日本刀を作ることを職とする者の事で、通常、日本刀の刀身を鍛える職人・刀鍛冶を指す。また、刀匠とも言われる。
 日本は職人の地位が高く、古くから大切にされてきたが、中でも日本刀はまつわる話も多く、名刀工、名匠とされる人々も多くいる。
 日本刀は、使用されたそれぞれの時代の戦闘様式や風潮、流行などにより、その形態を大きく変化させてきた、高い機能性と美術性を兼ね備えた武器である。
 江戸時代初期の頃までは多くの戦に用いられ、武士の魂とも言われたが、平和な江戸中期には一時衰えた。その後、復古刀が全盛となり、幕末には多くの刀が使用されたが、明治維新以後は銃器に取って代わられた。
 現代では、武器と言うよりも美術工芸品として、愛好家の間で売買されている。
 刀工は、崇高な品格と芸術性を持つ日本刀の刀身を作る、世界に誇る職人である。
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2008/4/25


刀銘源正雄 Toumei-minamotono-masao 

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 「刀銘源正雄(とうめいみなもとのまさお)」は、昭和四五(1970)年、北海道の有形文化財に指定されている。
 安政五(1858)年、江戸から招いた刀工・源正雄が制作した刀剣は、長さ七〇、四五センチメートル、反り一、八センチメートルの一振で、函館近隣でとれる砂鉄を使用し、刀を鍛造したといわれている。
 源正雄は本名を鈴木次郎という。美濃国で生まれ、江戸に出て下谷御徒町に住み、源清麿(みなもとのきよまろ)に学んだ名工である。
 栗原信秀や斉藤清人の兄弟子で、合わせて清麿三高弟と呼ばれ、人気の高い名工であった。愛刀家が愛蔵し、源正雄の作品は世に出回る事が少なく、大手の刀剣店でも滅多に目にする事は出来ない。
 刃(やいば)の形状を表現するもので、馬の歯乱(うまのはみだれ)という言葉がある。源正雄の作品には、規則正しく焼き入れた大きめの互の目乱と呼ばれる刃文(はもん)が入り、その様子が馬の歯並びを思わせる特徴があることから、幅広く角張った互の目乱を「馬の歯乱」と呼んでいる。
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2008/4/11


剣道 Kendou 

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 剣道(けんどう)とは剣術の竹刀稽古を競技化した武道である。
 平安時代(794~1185)の中頃に日本刀が出現し、室町幕府以降には、剣術の高度化が進み洗練された刀法が確立されていったとされる。
 江戸幕府以後、剣術は人を殺傷技術から武士としての技芸や精神鍛錬の目的が強くなり、竹刀稽古が盛んになった。大正八(1919)年、剣術から「剣道」と改名され、庶民にも広まっていった。
 選手の服装は剣道着と袴(はかま)を基本とし、防具として垂れ・胴・面・小手の剣道具を着用する。試合場では一辺9~11メートルの正方形ないし長方形の中で二人が向き合い、竹刀で防具の決められた箇所を打ち、技とする。
 一切の無駄を省いた姿・形の美は、現在にいたるまで老若男女を問わず人気の武道であり、昭和四五(1970)年に、国際剣道連盟が結成された事で、世界各地でも浸透しつつある。
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2008/4/4


末古刀 Suekotou 

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 末古刀(すえことう)とは、室町末期から安土、桃山期にかけて作られた日本刀の総称である。
 古刀と新刀を区別した根拠は、江戸後期に出版された「新刀弁疑」という本が、新刀の定義を慶長以来としたがため、以後、慶長を境にそれ以前の日本刀を古刀、以後を新刀と呼ばれるのが定着したとされる。
 古刀の最充実期は鎌倉中期と言われ、それ以後は南北朝時代~戦国末期まで刀はどんどん実用的になり、質よりも数が求められるようになっていった。
 江戸時代に入ると平和が訪れ、再び刀は数から質へと変化する。従って、末古刀には古刀の中でもそれ以前のものより劣る古刀という意味が含まれている。
 実際には、末古刀は備前長船と関が二大産地であったが、共に実用本位でよく切れたと言われ、決して古刀や新刀に劣らない高い質のものも数多く存在する。
 末古刀は、実用刀とされる、切れ味が鋭い日本刀である。
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2008/2/14


鍔 Tsuba 

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 鍔(つば)とは、刀剣の柄と刀身の間に挟む、平たい鉄板の事である。
 中央に穴を開け、そこに刀身を通し、柄をつけて固定して使用するもので、円形・方形など、大きさや形が種々存在する。
 鍔の役割は相手の刀刃からの斬撃防御のためにあると思われがちだが、実際には他の理由も大きい。
 まず、刃の方へ手を滑らせないためのストッパーとしての役割がある。
 次に、床に刀を置く時、指を離さないですむ事も重要である。置いた刀を取るとき、掴み易いという利点もある。
 腰に差している時に、左手の親指で素早く鯉口が切れて、咄嗟の抜き打ちに有利となる点も大きい。
 鍔は、古くは「つみは」とも言う、日本の刀剣にとって必要不可欠な部品である。
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2008/2/6


鞘 Saya 

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 鞘(さや)とは日本刀の刀身を納める筒のことをいう。
 鞘の先端である部分、刀身の先の部分が納まる個所を鐺(こじり)といい、鞘の口の部分を鯉口(こいくち)という。大刀の鞘には刀を帯に巻くためのひも、下緒(さげお)が取り付けられている。
 昔から鞘の条件は常に丈夫であることとともに、美しさも要求されてきた。そのため、漆を薄く何層にも重ねて塗り、そして固めるという大変手間のかかる作業を繰りかえすことで、独特のぬるりとした光沢と頑丈さを備えた鞘が作られてきたといわれる。また、その表面には美しい文様なども描かれ、材質も皮、木、獣の角、布、金属などが巧みに利用されてきた。
 日本刀が世界に誇れる芸術作品と言われるのは、刀身の美しさだけでなく、伝統工芸ともいえる鞘の素晴らしさにもあることを、見過ごすことはできないだろう。
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目貫 Menuki 

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 目貫(めぬき)とは刀を止める目釘の表面を飾る金具である。目釘がないと刀身が柄から抜け出してしまうという重要な留め具の役割を果たしており、目貫とは大切、主要という意味もこめられている。そのため、現在でも、賑やかな繁華街や商店街をさし「めぬき通り」と称する言葉が残されている。
 元々は目釘と目貫は同一のものであり、刀において実用的なものであったが、その後、目釘とは別の「美しさを飾る」ものとして目釘の表面を飾る金具となっていった。江戸時代は多くの名人と呼ばれる金工が輩出され、彼らの手によって作られた装飾品としての目貫は、人々の間で流行し、親しまれることとなった。
 特に金工として有名なのは、織田信長や豊臣秀吉に信頼された「後藤家」があげられる。中でも四代目・後藤光乗(ごとうみつじょう)は名人金工として今日まで語りつがれ、彼の手がけた目貫は優れた金物として高い評価を残している。
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