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2008/9/8


脇差 Wakisashi 

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 戦国時代、脇差(わきざし)とは合戦において使用される予備の刀であった。
 その後、江戸時代に作られた「武家諸法度」の中で大刀である本差と小刀の脇差の帯刀が義務付けられたため、脇差は武士の正当な差料(武士が腰に差す刀)となった。同時に長さも、脇差の刃渡りは1尺(30センチ)以上、2尺(60センチ)未満と決められた。
 また、脇差は武士以外の百姓、町人にも携帯が認められ、侠客たちは抗争に備えるために大刀と同じ長さの脇差を持つようになったとされる。幕末においては刀は大刀、小刀とも長いものがよいとされ、新撰組局長の近藤勇の書簡の中にもそのことが記されている。
 江戸時代の武家社会において脇差のもつ役目は武士道の儀礼的色合いが強くにじんでおり、敵に対して常に備える、自分の命を絶つものとして重んじられていた。
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2008/8/29


会津本郷焼 Aizu-hongou-yaki 

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 会津本郷焼(あいづほんごうやき)は、福島県会津美里町周辺で生産される陶磁器で、主な製品に食卓用品、茶器、花器、酒器などがある。平成五(1993)年、通商産業大臣(現経済産業大臣)より伝統的工芸品に指定された。
 戦国時代に会津若松城の大改修を行うに当たり、城郭の屋根を瓦葺きとするため、黒瓦を製造したのが始まりとされている。江戸時代初期には会津藩の藩主が焼き物作りを保護、育成したため、会津本郷焼は会津藩の御用窯として栄えた。幕末から大正時代にかけて危機に直面するも立ち直り、現在も焼き物の生産が続けられている。同一産地で陶器と磁器の両方を作っているのは珍しい。
 磁器には、呉須(ごす)という青色の絵の具を使った染付や、日本や西洋の絵の具を使った多色の色絵など、様々な種類がある。陶器は実用的なものが多く、あめ釉(ゆう)や灰釉(かいゆう)といった、伝統的な釉薬(ゆうやく)が使われている。
 陶工たちは、大自然そのもののような素朴で流麗な文様を、大切に守っている。
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2008/8/14


砥石城跡 Toishijoato 

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 砥石城(といしじょう)は、現在残っている戦国時代の山城の中でも位置、城主がはっきりしている城址。長野県上田市住吉に位置し、そそり立つ岸壁上に建っている。
 築城は室町時代中期、備前国の守護代・浦上氏に仕えた宇喜多能家の居城であった。
 上田地方にはたくさんの山城跡があるが、砥石城跡のように戦国時代4回も対決が行われた城は他に見当たらない。天文十九(1550)年には甲斐の武田信玄が村上義春の守る砥石城を、大軍を持って攻めたが、堅固な山城のため攻略できず、敗退した。その翌年、武田信玄配下の真田幸隆が攻略、砥石城を乗っ取る。その後も天正十三(1585)年の第一次上田合戦や慶長五(1600)年の上田合戦などで、砥石城は村上・武田・真田・徳川氏らの争いの場となった。
 今では築城期の石垣、二の丸などが残るのみ。城跡からは、上田市街と真田の町並みを一望できる。
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神之峰城跡 Kannomine-jo-ato 

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 神之峰城(かんのみねじょう)は、戦国時代の竜東(現長野県飯田市)の雄・諏訪氏の流れを汲む知久頼元の居城だった城。
 下伊那に勢力を張った知久頼元は、諏訪氏滅亡後、武田信玄に従ったが、天文二三(1544)年、武田氏に反旗を翻したため、信玄の攻略を防ぐことかなわずに落城した。
 現在城跡は、市の史跡に指定されており、天龍小渋水系県立公園の一部となっている。山頂部にはテレビ塔が立てられているので、山頂まで車で登ることができる。そのNHKのテレビ塔が本丸跡である。城跡には久堅神社がひっそりと佇んでいる。展望台からの眺めは素晴らしく、飯田市街が一望できるという。
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2008/7/24


城下町 Jouka-machi Jouka-machi (Castle Town)

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 城下町(じょうかまち)とは、主に領主の居城を中心として成立した都市のことである。
 その成立は戦国時代とされ、織田信長による兵農分離で、武士を城下に住まわせると共に市場を設けて商工業を行なわせたことによるとされる。
 城下町としての基本構造は、城の付近を通る幹線道路を付け替えて、往来が城下を通るようにさせたもので、これにより商工業が活性化し、発展を促して城下に広く人々が集い、町が形成されていくこととなる。
 都市防衛についても様々な工夫が施されている場合が多く、川の有効利用や門の設置、道路わきの家屋を隙間なく建てて城を見えなくするなど、都市そのものが巨大な防衛能力を持つものもあった。
 居住地の区画割りも城を中心に近いほど身分の高い侍が住み、一般市民や寺社などは城から離れるにしたがって割り当てられた。
 現在においても城下町の風情を残す街は少なからずあり、それ以外でも番町や大手町、呉服町などの町名に往時を偲ぶことができるだろう。
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2008/7/4


薩摩琵琶 Satsuma-biwa 

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 「薩摩琵琶(さつまびわ)」は鹿児島県鹿児島市に伝わる伝統工芸品であり、国の無形文化財に指定されている。指の間隔と音感をもとに、音色に琵琶独特の揺りや変化が付けられるのが特徴である。
 戦国時代(1493~1573)、九州の薩摩地方で薩摩・大隈・日向の第一五代領主・島津貴久(しまづたかひさ)の実父・忠良(ただよし)が、盲僧の淵脇了公(ふちわきりょうこう)に作曲をさせ語らせたのがはじまりであるといわれる。武士の士気を鼓舞する目的で作られ、詞章は教訓的な内容であったという。
 江戸時代中期には町人の間にも広まり、娯楽として琵琶に親しむようになる。明治維新以後、薩摩藩の東京進出に伴い、薩摩琵琶は全国的に広まった。
 三味線は弦の長短で音高を出すが、琵琶は弦の張力で音高を出す。左手の位置はほぼ固定した状態で、高い柱を使い、三本の指を使って弦を締めたり弛めたり調節しながら、音を作り出していく。琵琶の独特ある力強い響きは、大きく尖った撥(ばち)により、勇壮な音を奏でていく。
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2008/6/30


津城(安濃津城) Tsu-jou(Anotsu-jou) 

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 津城(つじょう)は、三重県津市丸の内にあった城である。別名・安濃津城(あのつじょう)とも呼ばれる。
 永禄年間(1558~1569)に、長野氏の一族・細野藤敦(ほそのふじあつ)が安濃・岩田の両河川の三角州に小規模な安濃津城を構えたのが、始まりとされる。
 北は安濃川、南は岩田川に挟まれ、これらを天然の大外堀としていた要害である。
 以後、何人か城主を替え、慶長一三(1608)年、藤堂高虎が伊勢・伊賀22万石をもって入城した。高虎は城の大改修に着手し輪郭式の城郭に変貌させ、城下町を整備し、明治維新まで藤堂氏の居城となった。
 現在、城跡はお城児童公園となっており、北側の本丸石垣には、築城時の石垣に修築時の石垣が継ぎ足された様子が伺える。
 津城は、戦国時代を生き抜いた歴戦の城である。
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越中 安田城 Eccyu Yasuda-jou 

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 安田城(やすだじょう)は富山県富山市にある城址である。
 近隣の井田川の水を引き入れた広い堀が巡らされ、水堀に浮かぶ浮城のようである。本丸、二の丸、右郭で構成された戦国時代の平城で、城の建物は今はないが、発掘調査を経てその外形は現在も良い状態で残されている。
 安田城が創建された年は不明であるが、天正元年(1573)年の資料にはすでに存在している。
 天正一三(1585)年、豊臣秀吉が富山城主佐々成政を征伐した際、秀吉側の前田利家の家臣がこの城で陣を取った。これを機会にのちに前田利家やその家臣が居城としたが、一国一城令が発令される頃に廃城となった。
 昭和五六(1981)年に国指定史跡となっている。
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